過去に掲載した、
この「小さいことば」シリーズを
ご紹介する文章のなかに書いたと思いますが、
糸井重里が書いた1年分の文章を
材料にして編むこの本のシリーズは、
糸井重里がその1年をどういうふうに過ごしたか、
ということが色濃く反映されます。
2015年8月に出る『忘れてきた花束。』は、
2014年に糸井重里が書いた原稿がもとになっています。
つまり、この本には、
糸井重里の「2014年」が表れます。
ぼくはひとつひとつのことばを拾って
本のかたちに編み上げながら、
地層と化石を照らし合わせる学者のように
「ははぁ、これはあれのことか」とか、
「こういう話が続くのはどういうことだろう」とか、
「この時期はずっとこれがテーマだな」とか、
思いや推測をめぐらせていきます。
それは、本を編集することとはまた違う次元で、
つくるうえでの特別なたのしみでもあります。
そう、これまでの8冊がそうであったように、
この『忘れてきた花束。』にも、
「傾向」というものがあります。
とりもなおさずそれは、
2014年の糸井重里の「傾向」にほかなりません。
小さな例を挙げましょう。
たとえば、2014年、
糸井重里はこれまでの人生のなかで
おそらくもっとも「猫」に向き合った年でした。
それは、精神的にも、物理的にも。
ねこが健康だということは、
家がよく掃除されていて
清潔だということと同じだ。
犬もねこも、
人間と縁のないエイリアンではなく、
いっしょにセットで
世界をつくっているなかまだ。
(『忘れてきた花束。』より)
このように、「小さいことば」シリーズは、
単に「名言を集めた本」というのとは
まったく違う、生々しさがあります。
「考えの粋」のようなものも
もちろんこの本の主原料ですが、
それにとどまらず、ことばを発した人の
「暮らし」や「毎日」や「ふとしたこと」が
自然と本に巻き込まれるからです。
もうひとつ、違う「傾向」を挙げましょう。
こちらは、ひとつひとつのことばというよりも、
本全体にうっすらと流れるような「傾向」です。
糸井重里は、この本のなかで、
「それを実現するにはどうしたらいいか」
ということを、いろんなかたちで再三書いています。
夢のようなことを、夢じゃなくするにはどうしたらいいか。
夢を小分けにして計画にすること。
手を動かすこと。実際に行動すること。
実現をじゃまするものについて。
いまできることはなにか。
いまそれができないとしたら、
いまほかにできることはなにか。
そういったことを、
糸井重里はくりかえしテーマにします。
どうしてそれをくり返すかといえば、
それはやっぱり明らかで、
彼には「実現させたいこと」があるのでしょう。
それも、ここ数年のなかで、ひときわはっきりと。
こういうことを言うのはたいへん失礼だと思いますが、
かなえたいことが具体的になる、ということを、
「成長する」と言い換えることもできるとぼくは思います。
糸井重里の「実現させたいこと」は、
(とりわけ震災後は)年々はっきりと
具体的に像を結びつつあり、
その意味では、毎年、
彼は成長しているといっていいのだと思います。
いっしょに仕事をしていると、
糸井重里は、突拍子もないことはしょっちゅう言いますが、
夢はほとんど語りません。
「そうなったらいいな」と糸井が語るときは、
妄想でも逃避でも愚痴でも皮肉でもなく、
ほんとに実現したらいいなぁと思っています。
そして、その「実現させたいこと」は、
ひとつではありません。
たくさんあって、かかわり合っていて、
複雑で困難に見えるけれども
ひとつ結び目がほどけたらするすると実現しそうで、
ややこしさとすばらしさの
かたまりみたいにして、彼のなかにずっとあります。
たとえ見かけ上の動きがないとしても
ドクンドクンと糸井のなかで生きています。
それを、糸井重里は、ずっと考えているのです。
そして、ずっと考えているからこそ、
毎日の原稿のなかにひょいと顔を出すのです。
ああ、また長くなってしまいました。
最後にもうひとつ、
『忘れてきた花束。』という本の「傾向」を。
糸井重里はこの本のなかでしばしば
「笑顔」について語ります。
「笑顔はいいなぁ」というふうに言います。
それは、「実現」と「猫」でいえば、
「猫」に近いほうの傾向ですね。
担当編集者・永田泰大
(紹介になってるのかなってないのか
わからないこの予告は、
あと2回ほど続く予定です)
(2015.07.28)