『他人だったのに。』
について。

ほぼ日刊イトイ新聞永田泰大

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糸井重里のことばを集めてつくる本を、年に1冊、出し続けています。最初の本が2007年でしたから、今年で12冊目になります。

出し続けることができてうれしいなあといつも思っていますが、今年は、とりわけしみじみと思いました。出すことができてうれしいなあ、と。逆の言い方をするとそれは、出せなくなる日のことをすこし思った、ということでもあります。

縁起の悪いことを言うつもりはありません。むしろ、ただ、事実として、今年、ぼくはそう感じたのです。なぜかというと、ほかならぬ、糸井重里本人がそう言っているからです。

おれはこのままずっといるわけじゃないよ、と。

といっても彼は、人はいつか死ぬというような避けられない摂理を説いているわけではありません。もっとドライで現実的な、言ってみれば組織のトップとしての視点から糸井は静かに言うのです。

70歳を過ぎるような人がずっとこういう場所にいていいわけないだろう、そんな組織はだめだと思うぞ、と。

そういったことを、以前から糸井は口にしてはいました。自分抜きでも平気な組織をつくるというのは、ほぼ日刊イトイ新聞が創刊以来、糸井重里が常に意識してきた大切なテーマでもあります。けれども、とくにここ1年くらい、糸井がそれを語るとき、彼の目にはずいぶんと具体的な景色が映っているように思えるのです。きちんとその日に向かっている、というか。

しかも、これはとても重要な要素なのですが、そのように自分のいない日を語るとき、糸井重里は、「ちょっとたのしそう」なのです。

それで、ああ、これは、きっとそうなのだな、とぼくは思うわけです。なぜなら、糸井重里がたのしそうなときは、ほんとにそう思っているからです。だから、明日や来週のことではないけれども、数年先とかに、いつか。1年先くらいではないけれども、何年か過ぎたら、たぶん。

そのとき、糸井重里が、たとえば毎日の原稿をどうするのか、おそらく糸井自身も決めていないでしょう。ひょっとしたら、糸井がほぼ日刊イトイ新聞に毎日書いている「今日のダーリン」だって、あっさりやめたり、形を変えたり、なんだか予想もしないことになるかもしれません。(なにしろ糸井がたのしそうですから)

この本は、何度も書いているように、糸井重里が毎日書いている原稿からこれはいいなぁ、ということばを厳選し、よいと思う順番に並べ替えて、つくっています。つまり、糸井重里のことばが、毎日毎日新しくつむがれるということを思いっきり前提にしているのですが、それって、前提として、とても幸せなことだと思うのです。

たとえば、ある日、ふっとこういう原稿が書かれたりします。少し長いですが、引用します。

孤独は、すべての人にとっての前提なのであるから、だれかは孤独じゃなくてだれかは孤独ということはない。

この言い方は、「人はだれでも死にます」に似ている。だれか、死なない人がいるわけではない、みんな死ぬ。これは、冷たい言い方でもなんでもなく、おぼえておいたほうがいいことである。

さみしいか、と問われて、さみしくないと答えられるときもある。さみしいを忘れているようなときには、さみしくないと言える。だが、ずっとさみしくないなんてことはない。ひとりが好きだということと、それは別のことだ。

人の孤独は前提で、その孤独な人が、別の孤独な人たちと手をつなぎたいと感じている。手をつないだら、もっと生きやすくなるから。手をつなぐことで、この手を持つじぶんが、いてもいいんだと思えるから。

「ほぼ日」をはじめてすこし経ってから、Only is not Lonely. と書き出した。コンピューターの画面にひとりで向かっているとき、別のどこかにじぶんと同じ姿のひとりが見つかる。いいな、それは、ネットってそういうところがいいな、と、とてもうれしい気持ちになって、書いたものだ。

さみしいか、あなた。さみしいか、ぼく。それでいい、ぼくら。

こういうことばがどんどん書かれて、ああ、もったいない、と虫取り網をぶんぶん振り回すようにぼくはそれらをつなぎとめます。

切り抜いてスクラップ帳に貼ったり、両手ですくってバケツに入れたりします。すこし洗ったり干したり鏡に映したりします。ユーモラスな額縁で飾ったり、深夜の会議室の床にぜんぶのことばを並べてみたりします。

そんなふうにして、今年も、今年の本ができました。タイトルは『他人だったのに。』(色っぽいタイトルですよね)すばらしい装画はミナ ペルホネンの皆川明さん。ブックデザインは、じつはぼくの大学時代からの盟友、プリグラフィックスの清水肇。そして進行役の茂木直子と凸版印刷の藤井崇宏さん、石津真保さんは、このシリーズに欠かせないメンバーです。

ああ、そうだ、そういえば、ちゃんと言ったことがなかったから書いておこう。

糸井重里さん、毎日、いいことばを、どうもありがとうございます。

毎年、くぅ、としびれたり、笑ったり、しみじみしたりしながら本をつくっています。

今年の本も、とてもいい本になりました。若い人にも、いろんなことを知ってる人にも、どんな人にも、自信を持っておすすめできます。

ああ、この原稿をここで締めて、本のプロジェクトがひと区切りするのが惜しいくらいだ。

2018年12月

永田泰大(ほぼ日)

糸井重里のことばを集めてつくる本を、
年に1冊、出し続けています。
最初の本が2007年でしたから、
今年で12冊目になります。

出し続けることができてうれしいなあと
いつも思っていますが、
今年は、とりわけしみじみと思いました。
出すことができてうれしいなあ、と。
逆の言い方をするとそれは、
出せなくなる日のことをすこし思った、
ということでもあります。

縁起の悪いことを言うつもりはありません。
むしろ、ただ、事実として、
今年、ぼくはそう感じたのです。
なぜかというと、ほかならぬ、
糸井重里本人がそう言っているからです。

おれはこのままずっといるわけじゃないよ、と。

といっても彼は、人はいつか死ぬというような
避けられない摂理を説いているわけではありません。
もっとドライで現実的な、
言ってみれば組織のトップとしての視点から
糸井は静かに言うのです。

70歳を過ぎるような人が
ずっとこういう場所にいていいわけないだろう、
そんな組織はだめだと思うぞ、と。

そういったことを、以前から糸井は口にしてはいました。
自分抜きでも平気な組織をつくるというのは、
ほぼ日刊イトイ新聞が創刊以来、
糸井重里が常に意識してきた大切なテーマでもあります。
けれども、とくにここ1年くらい、
糸井がそれを語るとき、
彼の目にはずいぶんと具体的な景色が
映っているように思えるのです。
きちんとその日に向かっている、というか。

しかも、これはとても重要な要素なのですが、
そのように自分のいない日を語るとき、
糸井重里は、「ちょっとたのしそう」なのです。

それで、ああ、これは、きっとそうなのだな、
とぼくは思うわけです。
なぜなら、糸井重里がたのしそうなときは、
ほんとにそう思っているからです。
だから、明日や来週のことではないけれども、
数年先とかに、いつか。
1年先くらいではないけれども、
何年か過ぎたら、たぶん。

そのとき、糸井重里が、
たとえば毎日の原稿をどうするのか、
おそらく糸井自身も決めていないでしょう。
ひょっとしたら、糸井がほぼ日刊イトイ新聞に
毎日書いている「今日のダーリン」だって、
あっさりやめたり、形を変えたり、
なんだか予想もしないことになるかもしれません。
(なにしろ糸井がたのしそうですから)

この本は、何度も書いているように、
糸井重里が毎日書いている原稿から
これはいいなぁ、ということばを厳選し、
よいと思う順番に並べ替えて、つくっています。
つまり、糸井重里のことばが、
毎日毎日新しくつむがれるということを
思いっきり前提にしているのですが、
それって、前提として、
とても幸せなことだと思うのです。

たとえば、ある日、
ふっとこういう原稿が書かれたりします。
少し長いですが、引用します。

孤独は、すべての人にとっての前提なのであるから、
だれかは孤独じゃなくてだれかは孤独ということはない。

この言い方は、「人はだれでも死にます」に似ている。
だれか、死なない人がいるわけではない、みんな死ぬ。
これは、冷たい言い方でもなんでもなく、
おぼえておいたほうがいいことである。

さみしいか、と問われて、
さみしくないと答えられるときもある。
さみしいを忘れているようなときには、
さみしくないと言える。
だが、ずっとさみしくないなんてことはない。
ひとりが好きだということと、それは別のことだ。

人の孤独は前提で、その孤独な人が、
別の孤独な人たちと手をつなぎたいと感じている。
手をつないだら、もっと生きやすくなるから。
手をつなぐことで、この手を持つじぶんが、
いてもいいんだと思えるから。

「ほぼ日」をはじめてすこし経ってから、
Only is not Lonely. と書き出した。
コンピューターの画面にひとりで向かっているとき、
別のどこかにじぶんと同じ姿のひとりが見つかる。
いいな、それは、ネットってそういうところがいいな、
と、とてもうれしい気持ちになって、書いたものだ。

さみしいか、あなた。
さみしいか、ぼく。
それでいい、ぼくら。

こういうことばがどんどん書かれて、
ああ、もったいない、と
虫取り網をぶんぶん振り回すように
ぼくはそれらをつなぎとめます。

切り抜いてスクラップ帳に貼ったり、
両手ですくってバケツに入れたりします。
すこし洗ったり干したり鏡に映したりします。
ユーモラスな額縁で飾ったり、
深夜の会議室の床に
ぜんぶのことばを並べてみたりします。

そんなふうにして、今年も、今年の本ができました。
タイトルは『他人だったのに。』
(色っぽいタイトルですよね)
すばらしい装画はミナ ペルホネンの皆川明さん。
ブックデザインは、じつはぼくの大学時代からの盟友、
プリグラフィックスの清水肇。
そして進行役の茂木直子と
凸版印刷の藤井崇宏さん、石津真保さんは、
このシリーズに欠かせないメンバーです。

ああ、そうだ、そういえば、
ちゃんと言ったことがなかったから書いておこう。

糸井重里さん、毎日、いいことばを、
どうもありがとうございます。

毎年、くぅ、としびれたり、笑ったり、
しみじみしたりしながら本をつくっています。

今年の本も、とてもいい本になりました。
若い人にも、いろんなことを知ってる人にも、
どんな人にも、自信を持っておすすめできます。

ああ、この原稿をここで締めて、
本のプロジェクトが
ひと区切りするのが惜しいくらいだ。

2018年12月

永田泰大(ほぼ日)

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