シルク・ドゥ・ソレイユの
創設者のひとりであるジル・サンクロワは、
広報の女性にうながされて、
自己紹介をはじめました。

こういった外国人の取材が
自己紹介からはじまることはしばしばあることですが、
ジルの自己紹介は、通常のそれとは少々違っていました。

彼は、どういうわけか、
(たまたまなのか、いつもそうなのか)
自分の8歳のころの思い出から語りはじめたのです。
そしてそれはけっきょくのところ、
シルク・ドゥ・ソレイユという特殊な集団の
はじまりの部分をそっくり話すことと同じでした。

すべての取材の前段として、
ジル・サンクロワがみずから語ってくれた、
適度に長い、適度にかいつまんだ
シルク・ドゥ・ソレイユのはじまりの物語を
どうぞお読みください。



『ジル・サンクロワの適度に長い物語 その1』



私がはじめてサーカスのショーを観たのは、
8歳のときでした。
私は農家の生まれで、田舎に住んでいたんですが、
あるとき、そこに小さなサーカスがやってきたんです。
空中ブランコ、それからアクロバット、
動物はあまりいなくて、馬が1頭出てきただけでした。
そして、私はそこではじめて、クラウンを見たんです。
そのクラウンはたいへんユーモラスで、
いろんなところに登ってみたり、
さまざまなものでバランスをとったり
といったことをやっていました。

私は、それを観て、
大きくなったら自分でもできるんじゃないかな、
というふうに思ったんです。

私は家に帰り、さっそく納屋にロープを張って、
綱渡りの練習をしました。
そんな私を見て、父親は
「ケガをするぞ! 下りろ!」と怒鳴りました。
けれども、私は、はじめて観たサーカスに
すっかり興奮していました。

いまでもはっきりと覚えていますが、
そのとき、私は、あのサーカスといっしょに
ここから逃げ出したい、とまで思ったんです。

その後、私は学校で、
ショーや劇場のことを勉強しました。
16歳のときに、小さな演劇集団をつくりました。
当時は、ほとんどの人たちが
ロックンロールをやっていたのですが、
私は演劇のグループをつくったんです。

といっても、本格的な公演をしたわけではありません。
ロックンロールの演奏やダンスが行われている
ホールの休み時間なんかをつかって、
即興劇や、風刺の小さな劇を、40分くらいやってたんです。

そのころには、もう、
劇場での仕事を自分の生活の糧にしようと決意してました。
もちろん、父親は猛反対しました。
農家の出身である父親は、真面目に勉強をして、
まっとうな職業につくよう、私に言いました。
いい子になりなさい、ということですね。

それで、私はどうしたか?
勉強しました。真面目に、勉強しました。
ずいぶん難しい勉強をして、建築科を卒業しました。

そして、建築事務所に勤めました。
それは、バンクーバーにある、
「クニモト・エンジニアリング」という会社でした。



「クニモト・エンジニアリング」
という会社名を出したとき、
ジル・サンクロワは両手を広げてニヤリと笑いました。
「クニモト」というのは日本の名前でしょう? と。

傍らでは、広報の女性が、
「そんな話は、はじめて聞きましたよ」
というふうに微笑んでいました。

ありがたいことに
どうやらジル・サンクロワは、
この日、饒舌なようでした。
もちろん、彼の話は続きます。


(続きます)






たくさんのトロフィーたち


シルク・ドゥ・ソレイユの国際本部に
入ってすぐのところに、
たくさんのトロフィーが
陳列されたショーケースがあります。
1984年の創立以来、シルク・ドゥ・ソレイユは
数々の興業を成功させてきました。
そのショーは世界中で多くのファンを魅了し、
結果、世界中でたくさんの賞を受賞しました。
並んだトロフィーはその一部、というわけです。
さて、そこに並んだ数々の栄誉の中でも、
案内してくださった女性広報の方が、
とりわけきちんと説明してくださったのがこちら。


これは、カナダの辞書なんですが、
「シルク・ドゥ・ソレイユ」ということばは、
なんとカナダの辞書にも掲載されているそうです。
うーん、そりゃすごい。
「ほぼ日」もそのうち辞書に載らないかしら。



(永田) 

2008-04-04-FRI

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