昼間のパパは、男だぜい! |
第2弾その2 「いざ、エビス堂製菓工場へ」 このへんかぁ。 足立区のとあるバス停。 天気がいい。立ってるだけでジンワリ汗をかく。 街道沿いのコンビニや酒屋、ちょっとした商店街。 だぶだぶズボンの茶髪のお姉さんがアイス食べてる。 クルマがやっとすれ違えるくらいの狭い路地を歩く。 神社の広場では、子供が10人くらいでサッカーやったり、 女の子が犬に引きずられて散歩したりしてる。 下町だからってわけじゃないんだろうけど、 妙に人が多い気がしました。 ついにきたぜ、エビス堂製菓工場。 民家のあいだにポツリと建っている。 入り口にたつと、中からグォーンと工場らしい音。 工場のわきにある事務所で、 3代目の持田忠義さんが、できた金平糖を 箱詰めにする作業をしていました。 これ、箱詰めにしてるの、店に卸すんですか? 「小売店に直接はあんまり行ってないけど、 浅草の仲見世あたりの何軒かには行ってるね。 ほとんどは問屋に行くんだよね。 そこから全国のデパートとかに行くね」。 朝からずっと作業してるらしく、 わきにはすごい数の箱詰めが山積みになってる。 これ、1週間でどのくらい出荷するんですか? 「1週間の量でいえば、1トンとかね」。 1トン! 1000キロかぁ。 ところで、今工場の中で金平糖を作っているのが、 メールをくれた方の旦那さんで、4代目の康弘さんですか? 「そうそう。せがれはなんとかやってるけどさ、 他の菓子屋さん、みんな辞めていっちゃうよ。 金平糖だけじゃなくて、いろんな菓子屋さんがさ」。 3代目の語り口をべらんめぇの江戸っ子調で 読んでる人、物静かな感じに変えてください。 穏やかにタンタンと、ですよ。 エビス堂製菓工場のホームページ読むと、 ここも昔はいろいろなお菓子を作ってたそうですね。 「結局いろんなことやったって、手がないからねぇ。 やれないんだよね、人手がないんだよ。 ウチも結局は金平糖ひとつにしたんだよね。 初代はね、明治時代のおわりころ始めたんだよね。 2代目……私の父が大正10何年についで、 場所も昔は千住でやってたんだよね。 今の場所、足立区の興野(おきの)に越してきたのが 22年くらい前だね。その前は日暮里。 だって、戦争前からやってるから、戦争中は転々と あっち行ったりこっち行ったりするじゃない。 だから2代目が千住で始めて、日暮里に移してさ」。 あー、そうか! 戦争中は千住とか日暮里って 空襲で焼かれたんだぁ。 「うん、焼けたよ。だからたいへんだったよ。 あのね、そこに飾ってある額が私の父(2代目)が もらったやつだよ。だいぶ前のだよね」。 ハイ、空襲の話はおしまい。 第十三回全国菓子大博覧会褒賞之証 金平糖 持田重五郎 名誉金賞牌 昭和二十九年 って書いてありますね。 なんとか終戦直後をしのいだんですねぇ。 ……うわ、暑! 賞状みてたら、工場から熱気がムワ〜ときた。 いや〜、今から工場みせてもらうんですけど、 中、暑そうですねー。いちおうタオル持ってきましたよ。 「暑いときは40度くらいになるからねぇ。 まあ、だんだん暑くなるから慣れるけど、 でもすごいよねぇ〜。 水飲んでばんがるしかないよねぇ。汗ダラダラだから。 冬はいいよぉ。シャツ1枚でいいから」。 そーすか、冬はいいすか。 冬に出直してこようかなぁ。 工場にクーラーって入れられないんですか? 「効かない、効かない。火使ってるからねぇ」 そうだよなぁ。 しっかし、工場に入る決心がなかなかつかない。 このまま3代目とお話してよっかなーなんて……。 さっきからオレ、弱気だぁ。 あのー、エビス堂製菓工場(以下、エビス堂)の ホームページを作ってるのは、4代目、息子さんですか? 「そうそう。せがれが考えてさ、 私はせがれが何やってるか、ぜんぜんわかりませんよ。 私ゃ見向きもしないけど、まあ好きにやんなよと。 ホームページで売ったって、量的にはさ、 どうってことないんだろうし。 やっぱ問屋さんにはまとまって卸すからねぇ。 それを問屋さんの営業マンが見本持っていって、 各小売店に売って歩くんだよ。 だから、ホームページのほうは、 売り上げというよりは、みんなに知ってもらうためだよね。 そういうことでは、いいかもしれないねぇ」。 タンタンと、理解あるというか……。 あー、そろそろ工場に行かないと。 いや〜、それにしても、 工場の入り口に近づいただけで、暑いっすねぇ。 「暑いでしょ。お茶あるよ。飲みなよ」。 じゃ、ちょっと一服させていただきます。 飲んだら、突入しますんで……。 カー、麦茶がうまいっ! (つづく) |
1999-07-16-FRI
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