15周年をむかえて。


ぼくが毎日書く文章の結びのところに、
読んでくれる人に向って、
「来てくれてありがとうございます。」
と、書くようになって、どれくらい経つのでしょうか。
最初から、そう書いていたわけじゃないのです。
「ほぼ日」の歴史のなかでは、
わりと最近のことだと思います。

「来てくれてありがとうございます。」
は、ごくごく平凡な、お店のあいさつですよね。
ほんとうに、そう思って言っているのか、
ただの常識的な接客マナーの実践なのか、
聞いている人にも、言っているものにさえも
わからないくらいの、
空気のようなあいさつです。

だけど、ふと気づきます。
「来てくれてありがとうございます」と、言わないと、
ものすごく気持ちがわるいでしょうね。
集まったみんなに「ありがとう」と、
呼吸するように、それが言いたかったんだと思うんです。

これが、15年という年月のつくったものなのか、
そういう気がしています。
ぼくの言ってる「ありがとうございます」は、
本気とか本気じゃないとかじゃなくて、
「ほぼ日」そのものになっていたのだと思いました。

畑を耕す農夫でも、同じ場所で、
さまざまな野菜をつくって、
それを15年も毎日欠かさず続けていたら、
畑とじぶんは、もう、
ひとつのものになっちゃうと思うんです。
おれが畑で、畑はおれだ、です。

1年や2年じゃ、そんなふうにはならない。
正直言って、10年やったら一丁前だという
10周年のときでも、まだ、そんなことは言えなかった。
15周年をむかえる、いまになって、やっとです。
本気で、この「まるごと」を実感できるようになったのは。

これからは、じぶんや、じぶんたちというより、
支えてくれている人たちすべてを含めた
「まるごと」を主人公にして、やっていこうと思います。

農夫のたとえでいえば、
おれと、おれたちと、畑と、作物と、景色の山や川と、
ぜんぶ「まるごと」で、なにができるか。
そういう問いかけがはじまるんだと思います。
個人の「おれ」である糸井重里だとか、
チームとしての「ほぼ日」なんていう単位は、
小さい小さい種子なんだと思うのです。
そこからはじまって、一本ずつ樹木が繁り出して、
やがては森が見えてくるというイメージ。
そして、その森がまた生きものとして動き出す‥‥。

そういう新しい展開が、
15歳になった「ほぼ日」の歩み方になるといいなぁ。
いやなに、そんなに気張っているわけではないのですが、
そろそろ、幼虫の時代から、脱皮していかなきゃね。
それが、自然なことだと感じています。

これまでになく、大きめの景色を語りました。
でも、基本は変わってないとも言えます。
「できることをしよう」という方法は、変わりません。
なんでも「たのしく」という姿勢も、同じです。
ただ、この場に止まらずに歩き出したいというだけです。
どんなおもしろいことをやるのか、
たのしみにしてる人や、いっしょにやろうと思ってる人が、
いっぱいいるんだから、じっとしてちゃいけないですよね。

そう、もう15歳なんだから。

これからも、どうぞ、いっしょにたのしんでください。