かゆみ論。
2008-09-01
犬と草原で遊んでいて、蚊に刺されたんだ。
蚊に刺されるときというのは、いつもそうなんだけど、
あ、蚊がとまったような気がするな、
と、まず思うんだ。
そういうときには、
たいてい、蚊がとまって、血を吸った後だ。
くっそーと思うんだけど、そのときにはなんともない。
刺されたところがふくれているわけでもないし、
かゆみもない。
もしかしたら、
かゆくしない蚊がとまって休んでいっただけか、
と、やさしいことも思わないでもない。
だけど、蚊とのつきあいも長いものだからね、
そのうちろくでもないことになる、と、
うすうす感じているわけだよ。
犬との散歩は、まだ始まったばかりなので、
このまま家に帰るというのではかわいそうだ。
犬もそうだろうけれど、せっかく連れてきたぼくだって、
それじゃあんまり不本意だ。
よし、墓地のほうへ歩いて行こう。
歩き出したとたんに、かゆみがでてくる。
こうなることはわかっていたのに、対処する方法はない。
ちょっとくらい爪でかいても、
かゆみはおさまるものじゃない。
かいてかゆみをおさめようというのは、
気休めにしかならない。
かゆみを軽減するためには、ぼくのこれまでの経験では、
よく効くかゆみどめの薬を塗るしかない。
しかし、それは家まで帰らないと、ない。
でも、散歩は続けると決めたのだ。
犬も、すっかりそういうつもりで、
遠回りコースを歩こうと、リードをひっぱっている。
もうこのころになると、
蚊がどことどこを刺したのか、はっきりする。
両腕のあちこち、5ヶ所、かゆい。
歩いていてもかゆい、信号待ちで止まっていてもかゆい。
しかし、自分でこのかゆみを覚悟したはずなので、
もう文句も言えない。
それに、かゆみは痛みとちがうわけで、
かゆくて気を失うということもない。
痛みだってガマンする人がいるのだから、
かゆいくらい、ガマンすればできるはずだと思った。
かゆみはガマンできないものなのか、と、
本気で問われたことなどなかったから、
考えたこともなかった。
ぼくは蚊に刺される前とおなじように、散歩できている。
実際に、かゆみをガマンできているのだ。
しかし、同時に、ガマンできないような気もしているのだ。
ガマンできない、と言いたい気持ちもある。
痛みを快感と感じる人もいるのだから、
おれはかゆみを快感に変換してみよう、と思った。
かゆいと感じるたびに、「きもちいい」と感じようと、
試みてみたわけだ。
かゆいかゆい・きもちいいきもちいい‥‥と、
無理にでも考える。
だが、なかなか快感にはならなかった。
痛みなんかが快感に感じられるのだったら、
かゆみが快感に転じるくらい簡単なことではないのか。
もともと快感のなかには、
かゆみに似た成分が、あると思うのだ。
かゆいところをかかれたような感覚は、
あきらかにすばらしい快感である。
かゆみを感じるところが、的確にかかれたら、
それが快感になるということならば、
かゆみそのものも、
やがてかいてもらえるかもしれないという期待で、
快感の入り口くらいに味わえてもよいではないか。
しかし、そういうわけにも、いかないものだった。
かゆみは、そのまま、不快にもかゆみとして残った。
こうなったら、永久に続くかゆみはない、と
思い直すことにする。
でも、事実かゆいのだから、
いずれかゆくなくなるということが理解できたところで、
慰めにはならない。
結局、時にガマンし、時にかき、ということで、
予定通りに遠回りコースの散歩を終えることができた。
家に戻ってからも、まだかゆかったので、
かゆみどめの薬を塗ったら、ほとんどかゆくなくなった。
かゆくなくなってから思ったのだが、
ぼくのこの日のかゆみというのは、
たいしたことのないものだった。
かゆくてかゆくて、
「もう殺してくれ!」と叫びたいほどのかゆみも、
あるような気がする。
ぼく自身も、かゆみについて考えるなんて余裕もなく、
泣きたいほどかゆかったという経験もあった。
蚊よりもブヨとか、
またもっと別の毒虫とかにくわれると、
あんまり悠長なことも言ってられない。
アレルギー性の皮膚炎だとかも、
とんでもないかゆさで有名だった。
そういえば、ぼくもじんましんで苦しんだこともある。
痛いわけじゃない。
苦しいといっても息が止まるようなことはない。
かゆみの延長線上に、死を感じさせるような危険は、
どうもないような気がするのだけれど、
とてもとても不快なのだ。
痛みについては、同情も共感もされやすいし、
危険なすごみがある。
しかし、かゆみの苦しさについてくる同情や共感には、
もっとおかしみの混じるようだ。
演劇や、映画のなかでも、
かゆみにのたうちまわるヒロインは登場しないだろう。
敵役が、主人公に対して、
「もっとかゆくしてやる!」なんて叫んでも、
あんまり迫力がでない。
苦しさが、きりっとしてないのだ。
しかしだ。
悪魔となんかの取引があって、
「1年のうち1日だけひどい痛みを味わう」というのと、
「1年の間、毎日、かゆい」というのと、
どっちかを引き受けなきゃならないとしたら、
あなたなら、どっちを選ぶ?
もうちょっと、ゆるくして、
「1年のうち3日だけひどい痛みを味わう」というのと、
「半年の間、毎日、かゆい」というのでは?
けっこう、かゆみもなめられたものでもないだろう。
こう、人間の感じる快感だとか、不快感なんてものには、
痛みとか、死とか、寒さとか、ひもじさとか、
わりと劇的なタイプのものもあるけれど、
かゆみとか、眠さとか、蒸し暑さとか、だるさとか、
ドラマになりにくい不快もあるものなんだよねー。
どんな美人も、おしりをぽりぽりかいていたら、
それだけで「異色」の美人になってしまう。
それくらい、
かゆみと人間の関係というのは、
まことに不思議な領域にあるものなのだ。