ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

「機会」こそすべて。

人間はなにを求めているかということについては、
いろいろ考えられてきたし、
いまも、いくらでもいろんな考えがあるんだろうけど、
なんか、こういうのはどうだろう?

人間は「機会」を求めている。

金が欲しいということも、
金で「機会」が増やせるということじゃないか。

生きるか死ぬかの状況で、
食べるものが欲しいという場合も、
生きるという「機会」を求めているわけだよね。
食べものがないと、
「死」と「生」のうちの、
「生きる」という「機会」に出合えないんだ。

若い人がよく憧れる歌手という職業についても、
たくさんの人たちの前で歌える「機会」が欲しい、
というふうにも言えるよね。
スポーツ選手になりたいのも、
スポーツ選手として活躍する「機会」が欲しい
ということじゃないか。
活躍すればするほど、さらに「機会」は増える。
早い話が、決勝戦で活躍する「機会」に出合えるためには、
準決勝で勝つ必要があるし、
さらにそこに出場する「機会」を得るには……と、
「機会」の源流まで遡ることもできる。

「機会」がまったくなければ、
次の「機会」にも出合いにくい。
最初の「機会」が、親の手助けで得られる場合もあるし、
すっごく美人に生まれたからということもあるだろう。
まずは「金」で買った「機会」だってあるし、
ひたすらに努力を重ねて「機会」を得ることもある。

食いしんぼは、新しいおいしさに出合う「機会」を
生きる目的にさえしているかもしれない。

総理大臣になりたいという欲望も、
総理大臣になって出合うであろう
圧倒的に多そうな「機会」が欲しいとも言えるだろう。

一所懸命にダイエットすることも、
ダイエットしたからこそ得られそうな
「機会」に出合えそうだからじゃないかな。

モテたいということだって、
いろんな異性との「機会」を数多くしたい、
というふうに翻訳できるだろうし、
どういう職業につきたいかということについても、
自分の望むような「機会」の多くなりそうな仕事を
選びたいのだと思えば、わかりやすくなる。

カート・ボネガットが、小説のなかで、
「歴史とは酸化の過程である」
というようなことを書いていて、
そのせんじ詰め方を
おもしろいなぁと思ったことがあったのだけれど、
人は「機会」を欲望する生き物だという
乱暴なまとめ方も、なかなかにおもしろいような気がする。
なにせ、この世界で生きるという
「機会」を手に入れたところから、
ぼくらの人生はスタートするのだから。

で、死とはあらゆる「機会」に出合えなくなること
‥‥なのかと言えば、
どうも、そういうことでもなさそうで。
誰か他者に自分の「機会」を譲り渡すこと、
とも言えそうだ。
いわば、「機会」を贈与するという意味に、
死をとらえることもできるかもしれない。

この、「機会がすべて論」に照らし合わせて、
いろんなことを考えはじめているんだけど、
けっこう使えるなぁって思うよー。

こないだのオバマさんの「Yes, We can」なんて、
もう「機会」そのものを語ってるだろう。

「チェンジ」を人々が好きなのも、
「機会」をばらまく「機会」こそが
「チェンジ」だからだよね。
もちろん「改革」ってやつも同じ意味だ。
持てる者の蔵(既得権)を打ち壊して、
「機会」を分配するということだろうから。

「夢」ということばが持っている魅力も、
「機会」へつながっているからだ。

「機会」さえふんだんに得られていれば、
その結果なんて、ほんとは大事じゃないのかもしれない。
結果が重要視されるのは、
結果の良し悪しで、
次の「機会」が増えたり減ったりしちゃうからで、
「機会」さえなくならないのであれば、
結果が失敗でもまったくかまわないのだと思う。
あなたも、あの人も、
今日も、明日も、あさっても、
「機会」が欲しいなぁと思っている。
残念ながら、ぼくもだ。

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