沈黙の発見。
2008-12-29
2008年が終わろうとしているので、
この1年で、いちばんインパクトを受けたことば、
この先も、ずっと胸の奥に住み着きそうなことばを、
探してみることにした。
探すまでもない。
もうわかっているのだ。
それは「沈黙」ということばだった。
最初に、それを耳にしたときのことは、
はっきり憶えている。
こんなシチュエーションだった。
吉本隆明さんに、ぼくは、
どう言ったらいいのか、
うまく言えないけれど訊いてみたいことがあった。
人間が生きていくための武器というのは、
実にいろいろあるように思えるけれど、
煎じ詰めれば「ことば」につきるのではないか。
ことばをうまくあやつれるものが、力を持ち、
ことばをうまく使えないと、
生きていくことがとても難しくなる。
ぼく自身が、ことばに関わる仕事をしてきたし、
吉本隆明さんも、ことばと格闘し、ことばで生きてきた。
どれほど無力を誇ってみても、
そのことさえもことばで伝えられるものである。
ことばは、ちからなのだ。
「ペンは剣よりも強し」と、胸を張って言える人もいる。
でも、それはいいことなのだろうか。
剣よりも強し、ということは、
剣よりもちからを発揮できるということで、
それはそのまま、他者の自由を妨げることのできる武器だ。
「ペンは剣よりも強し」には、
「だから、武器よさらば」と続けるべきだ。
というようなことを、ぼくは考えていた。
ことばというのは、考えようによっては、
諸悪の根源とも言えるのではないだろうか。
ことばをさんざん使いながら、
ことばという道具を時には武器としながら、
ぼくはことばを嫌っているようなところがあった。
このあいまいな、かたちになりかけてはいるけれど、
どう答えていいかわかりにくい質問に対して、
吉本さんは、かなり明瞭に語り出した。
そのときのようすは、
『吉本隆明の声と言葉』という本に、
収録されているので、少し長くなるけれど引用する。
糸井 言語に少しでも関わってきた人間として、
どんどん言語をしりたくなると同時に、
その言語が持つ罪のようなものについて、
すごく興味があるんです。
吉本 言葉をよく知り、よく使えて、
言葉を使うだけの人間らしさを持っている人、
それが統率者になります。
人間の進化はどうしても、
そういう方向に行くのは避けられません。
それを避けることができないならば、
階級あるいは格差が生まれることは
避けられないのです。
それがあるから
社会が成り立っているのかもしれませんが、
そうすると、人間には救いはないじゃないか、
ということになります。
また、同じように、
谷崎潤一郎や川端康成などの、
ただ小説というフィクションを作って、
それを書き記すのがうまいというだけなのに、
人から偉いと思われているのは
おかしいじゃないかという疑問があるわけです。
糸井 言葉がうまいということが、
格差につながっている、と。
吉本 そうなんです。
そこで、「人間らしさ」というのは、
なにによって決まるのかを改めて設定するとします。
人間らしさは、文章を書くのがうまかったり、
話し言葉が巧みで要領を得ていて、
人をわかりやすく納得させることができて、
多くの人を集めることができるとか、
そういうことによって決まるのでしょうか。
そうじゃないはずです。
人間らしさは、そういうことじゃありません。
これは、僕が勝手に
自分を納得させた考え方なんですが、
言葉というものの根幹的な部分はなにかといったら、
沈黙だと思うんです。
言葉というのはオマケです。
沈黙に言葉という部分が
くっついているようなもんだ
と解釈すれば、僕は納得します。
だいたい、言葉として発していなくても、
口の中でむにゃむにゃ言うこともあるし、
人に聞こえない言葉で
言ったりしてることがあります。
そういう「人に言わないで発している言葉」が、
人間のいちばん幹となる部分で、
いちばん重要なところです。
なにか喋っているときは、
それがいいにしろ悪いにしろ、
もう余計なものがくっついてるんです。
だから、それは本当じゃないと思います。
まして、そのオマケの言葉を、
誰かがいいと思ったり
悪いと思ったりするようなことは、
そのまたもっと末のことで、
それはほとんどその人には関係のないことです。
人からは沈黙と見えるけど、
外に聞こえずに自分に語りかけて
自分なりにやっていく。
そういうことが幹であって、
人から見える言葉は、
「その人プラスなにか違うものがくっついたもの」
なんです。
いいにしろ悪いにしろ、「その人」とはちがいます。
糸井 なるほど。
吉本 人間らしさをそういうふうに設定すれば、
わかってくることがあるばずです。
その考えでいくと、
おそらく人間はすべて平等である
ということが成り立ちます。
沈黙は、誰もが平等で同じです。
口の中で思ってるんだったら、
ほとんど差異は認められないと考えていいです。
多少違ってもそれは多少の問題で、
幹以外の、枝葉の問題にしか過ぎない
という理解が可能なんじゃないでしょうか。
引用は、ここまでにしておくけれど、
ここで語られたことは、とにかく胸にどしんときた。
わかるし、はっきりしているし、うれしい考えだった。
その後、吉本隆明さんの『芸術言語論』の展開も、
このときに語られた
「沈黙」を核にして進められる。
どのくらいの時間、この場所で「沈黙」について
語られていたのか、よく憶えていないのだけれど、
ぼくの時計では、10年とか20年の年月を、
一気に飛びこえたような感覚があった。
このときから、ぼくは
衣服に縫い付けたお守り札のように、
「沈黙」という二文字の概念を、
こころの底にいつも沈めておくようになった。
ぼくの好きな犬や、人や、出来事を、
ぼくがどうして好きなのか、
どんなふうにそれらを尊敬しているのかが、
「沈黙」というところから考えるとよくわかるのだ。
言い負かされることは、
いまの社会では負けということになってしまうけれど、
それは、ただ枝葉のことばで
組み伏せられてしまっただけだ
‥‥そういうことも、わかる。
「沈黙」から生まれた道具、
「沈黙」から生まれた時間、
「沈黙」から生まれたさまざまな豊かさ。
ことばという枝葉が、いくらざわざわと揺れても、
「沈黙」の幹や根がしっかりしていれば、
かならず生きていられて、
葉も繁るだろうし、花も咲く、実もなる。
やがてまた、花は枯れ、実は落ちるけれど、
「沈黙」という幹がそこにあるかぎり、
樹木は生き続けていく。
勇気も、優しさも、謙遜も、
この「沈黙」というもの発見から、はじまる。
2008年、いろんなことがあったし、
どれも、ぼくにとって大事なことではあったのだけれど、
なによりもうれしかったし、大事件だったのは、
この「沈黙」というものを、教わったことだった。
さぁ、来年を迎える。
むろん、来年になろうが、再来年になろうが、
「沈黙」の幹は少しずつでも、太くなるばかりだ。
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ぜひ、買ったり読んだり聴いたりしてほしいものです。
どうぞ、よろしくお願いします。