ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

食わず嫌いと、食ってみるか。

昼寝でもしようかと、
寝ころんで天井を見ながら思ったことを、
できるだけ、その流れのままに再現してみました。

だから、すっごくとりとめもないです。
ぼくの、いつもの自然な考えや思いの流れですから、
こんないい加減なものです。

お気楽に、いっしょに寝ころがって
天井をながめている気持ちで、お読みください。

では。
食わず嫌いということばがあるけれど、
人間の一生というのは、もう、食わず嫌いの連続だよ。
ほんとは、食わないものは
好きにも嫌いにもなれないんだろうけれど、
ところがどっこい、
食わなくても好きになったり、嫌いになったり、
するものなんだよなぁ。

テレビの画面でしか見ない人のことを、
勝手に、好きになったり嫌いになったりできるのも、
考えてみりゃ不思議なはなしでさぁ、
だいたいは「会ってみたらちがってたんだよ」
なんてことが多いんだよな。

そして、食ってもいないわりには、
どうして好きか、
どうして嫌いなのか、
なんてことも、あんがい説明できたりするんだな。
なんでなんだろうねぇ、自信を持って言うもんね。

なにかしらの根拠を、勝手に読み取って、
じぶんなりの判断をしているんだろうね。
「好き!」「嫌い!」なんてことを、
考えて考えて、考え抜いて決めていたら、
なにもできなくなっちゃうからなんだろうね。

長年生きてくると、嫌いな人よりも、
好きな人の数のほうが多くなるような気がする。
そして、嫌いなことよりも、
好きなことのほうが増えていくような気がするんだ。
でもね、圧倒的に多くなるのが、
「どっちでもいい」ことだね。
「どっちでもいい」ってのは、
無関心だとか思われているけれど、
それだって、
「どっちでもいい」っていう概念に対しての
食わず嫌いだと思うよ。
たいへんに愛情に満ちた「どっちでもいい」ってのは、
あるよ! 
神田のとんかつやに行くと、いつもそうなるよ。
ロースかつ丼にするか、ロースかつ定食にするか、
ほんとに決めかねるんだよ、いつもさ。
ほんとに「どっちでもいい」んだよ。
熱く、言えるよ、「どっちでも・いい!」んだよ。

どっちに転んでも、うれしいという場合には、
ほんとに「どっちでもいい」んだからさ、文句ないよ。
じぶんの意思で決定しない、
その流れみたいなものを喜びたい場合には、
「どっちでもいい」になっちゃうんだ。
右に行っても、左に行っても、
どっちでもつまらなそうだと思っている場合も、
たしかに「どっちでもいい」と言うだろうね。
でも、右も左も、
どっちでもおもしろそうだって場合も、
「どっちでもいい」になるんだから、
そのあたり、考えておいてもらいたいね。

食わず嫌いのことに、戻すとさ、
エリカさまだとか、朝青龍だとか、
揺り戻し的に、「いいんじゃない」と思われてない?
これ、いいことだと思うんだよね。
常識に外れてる、って責められてた人たちが、
「そのくらい外れてもいいか‥‥」って、
思われるようになったということでしょう。
不況のせいも関係しているのかもしれないね。
「完全な常識」みたいな幻想が、
そんなもの誰も守れないし、
みんなが守ろうとしたら息ができなくなるよ、って、
少しは気がついてきたんじゃないかな。

常識をわきまえていて、
教養がある程度ゆたかで、
倫理的にも問題なくて、
いつでも正義の旗を振っているなんて人間、
ほんとにいたら、おかしいんだよ。
ニュースキャスターみたいな人たちの演技も、
もう改定版にしたほうがいいと思うよ。
カメラをにらんで「どこかが狂ってます!」なんて、
芝居のなかでしかありえないせりふだもん。

なんか、時代が、
「食ってみようか」という気分に、なってるんじゃないか。
「黒人が大統領? ありえない!」っていう時代は、
ちょっと前まで、明らかにあったわけだけど、
いまは、そうじゃなくなったよね。
「食わず嫌い」から「食ってみようか」になったんだね。

あお、そういえば、
ぼくがいまの2倍くらい生意気だった時代に、
こんなこと言ったことがある。

「世の中苦いかしょっぱいか、
 なめてみなくちゃわからない」

あんがい、当たっていたかもしれないね。

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