ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

「するどい」って、たいしたものじゃない。

「するどい」と言われると人はよろこんだりするし、
「にぶい」と言われると、怒ったりするものだ。

もう、世の中はするどい人だらけで、
われこそがするどい、いや、われこそが、と、
するどい人どうしが、さかんに争ったり、
見上げたり見下げたりしている。

はたして「するどい」というのは、
いいことなのだろうか。
そんな疑問すら抱いたことのない人が
多いような気もする。
「いやぁ、彼はにぶいねぇ」なんて
ほめられている場面が、どこかにあったろうか。
あんまり知らないよなぁ。

先見力があったり、推理力があったり、洞察力があったり、
気遣いがあったり、発見力があったりすると、
「するどい」と言われるのかもしれない。
そして、その「するどい」ところは、
きっと、何かや誰かの役に立つのだろう。

「するどい」がもてはやされる歴史が、
どれくらい続いているのかは知らないけれど、
ほんとのところ、その、
「するどい」の価値って、高くなり過ぎてないかねぇ。

ふと思ってみた。
じぶん自身のことを振り返ってみると、
多少なりとも「するどい」ところが、
じぶんにあったとして、
それがよかったことなんて、
あんまりなかったような気がするのだ。
あえて言えば、フリーで仕事をしているときに、
「するどい」と思われたほうが、
話を聞いてもらえることぐらいかなぁ。

逆に、ぼくのなかにある
人並み以上に「にぶい」部分は、
ずいぶんじぶんを助けてくれたように思える。
もっと細かく考えるのが常識でしょう、とか、
そんなことにも気づいてなかったの、とか、
え、ほんとに知らなかったの、とか、
ひぇー怖くなかったのか、とか、
あとでそう言われるようなこと、
つまりはぼくの「にぶい」部分というのは、
実はけっこうな体積があるのだ。

もうちょっと「するどい」考えを持っていたら、
できなかったろうなぁと思うことや、
あの場面で「するどい」じぶんになっていたら、
もっといやな衝突をしていたかもしれないなんてことが、
いっぱいありそうなのだ。

「するどい」については練習もできるし、
努力してさらに「するどい」を磨くこともできるけれど、
「にぶい」は、どうにも練習できそうもない。
仮にできたとしても、
あんがい誰かにじゃまされてしまうかもしれない。

でも、どうもぼくは
「するどい」観点から言ってるものかもしれないけれど、
人間の大事な資源は「にぶい」のほうだと思うのだ。
「にぶい」をしっかりたっぷり抱えてないと、
ボディで言えば「体幹がしっかりしてない」ように、
ほんとのちからを発揮できないんじゃないかなぁ。

‥‥いや、ここまで言うのなら、
やっぱり「にぶい」を育てるヒントを、
ちょっとでもほしいものだ。
どうしたら「にぶい」が身に付けられるのか?
しばらく、それを考えていたのだけれど、
どうにもやっぱりそんな方法なんかないようなのだ。
ただ、ひとつだけ、
「あ、これは」と思った控えめな考え方がある。

むやみに「するどい」ことを、望まない。
これも、できそうでなかなかできないものだけれど。

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