ITOI
ダーリンコラム

<なぜほめることがいいのか?>

子供の教育問題とか、
スポーツ選手の指導とかを話題にするときに、
よく「ほめて育てる」という方法が語られる。

ほんとかよっ、て気がしていた。

甘やかされて育った小金持ちお嬢様たちが、
わけのわからない自信を持ってて、
ふにゃふにゃの刃を無茶苦茶に振り回すの図とか、
山ほど目にしてきたけれど、見ていて見苦しいばかりだ。

「上には上があることを知らない」がゆえの、
根拠なき自信については、
彼や彼女の「親がほめた」ことが、
仮の根拠になっているのだろう。

ほめてりゃいいってもんじゃない。
そう考えてきた。

しかし、この頃、あらためて思っているのは、
「やっぱりほめることが大事だよなぁ」ということなのだ。

日本の社会は、だいぶん長いこと
工業を中心の生産システムでやってきたから、
「まちがいない」ものを「誰でも」やりとりできることが、
よいこととされてきた。
ま、ひとつだけネジの溝がいいかげんだっただけで、
工業製品としては失格ですからね。
そういう社会での、理想的な人間のあり方というのは、
「まちがいないこと」になる。
欠点がない、普通のことが普通にできる、
そういう人がたくさんいれば、
いい工業社会がつくれるわけだから、
教育だって、そういう人間を育てるようなシステムになる。
このときに必要なのは、
「ネガティブ・チェック」というやつだ。

どこが足りないか、どのへんに弱点があるか、
それをチェックして、完全な普通の能力を身につける。
そういう目的なら、ほめる必要はなくなる。
(言い古されたこと言ってるみたいですが、がまんして)

ネガティブ・チェックは、ほんとうに便利である。
特に、管理する側の人間にとっては、
目標が立てやすいし、システムの補修もやりやすい。
「やることをキッチリやってくれたら、文句はない」
プロスポーツの指導者がよく語るこのコメントは、
黄金律のような響きさえ持っている。
ぼくだって、自分の仕事のチームを抱えているときには、
いつだって、そう言いたくてたまらない。

しかし、欠けのチェックというものは、
きりがないのである。
人間のやることだからとも言えるし、
目標は際限なく遠くに設定できるからとも言えるが、
「やることをキッチリやる」なんてことは、
ほんとうの意味では、絶対に無理なことなのだ。

さらに、誰か「じぶん以外」の人が、
「じぶんにわかりにくい価値規準でチェックしている」
という状況で、人はじゅうぶんに力を発揮できるだろうか。

これは、ちょっと想像してみてほしい。
例えば、面接試験の様子を。
「当社(当校)を志望された理由をお聞かせください」
という質問の、正しい答えというものがあるのだろうか?
おそらく、あるのだ。
ただし、その答えは、
面接官のこころのなかに「内緒でしまってある」。
面接されているあなたの価値観で、自由に発言したら、
相手の隠し持っている正解から
大きく逸脱してしまう可能性がある。
だから、それを防ぐために、あなたは、
逸脱しないための調査研究をしたりする。
そして、他の志望者よりももっと優れていることを
示すための「おまけ」をプラスして様子をうかがう。
たいへんなことだと思う。
だって、これは、
あなたの価値観があらかじめ否定されている戦いだもん。

面接の例でピンとこない人は、恋愛でもいいや。
相手の異性(同性でもいいけど)に
気に入ってもらうためにも、同じことが必要になる。
「ぼくは、ジャムパンが大好きです」
「えええっ!! わたし、ジャムパンってだーいきらいっ」
「あ、ぼくも、そんなに好きっていうか、その、
ジャムパンのことを特別に考えているわけではなくて、
その、ああいう、お菓子的なものの代表としてですね・・・
どういうお菓子が好きですか?」
「前はパンナコッタに凝ってたんだけどー・・・」
「あ、パンナコッタ、いいですよねー!!」
「いまは、飽きちゃって見るのもイヤになったのねー」
「あ、ぼくもぼくも、いまは。昔は凝ってたんですけどね」
これで、あなたの「よさ」が自由に発揮できるかといえば、
これもまた絶対に無理でしょう。

価値の体系表が相手に預けられちゃっているときに、
ぼくらは力を発揮できないのだ。
しかし、現実には、
自分の価値観だけでなんでも押し通すことなんて、
あり得ない。
たまにはあるんだけどね。

もんのおすごく売れてるタレントとかが、
何やっても当たるって時期があるでしょ。
ああいうときっていうのは、
「みんなが、俺がやることを待っていてくれる」という、
自信があるときなんですよね。
相手がどんな価値のテーブルを隠し持っているか、
推理したり研究したりする必要がない。
面接や恋愛の逆です。
右手あげたらキャー、あいさつしたらキャー、
転んだらキャー、おならしたってキャーって時期が、
大爆発した人たちにはたいていあるわけです。
そういう時期に、
人の才能とか能力っていわれるようなものが、
ぱーっと開花するような気がするんです。
まったく新しいものとか、すごいものっていうのは、
ネガティブ・チェックを超えたところに、
生まれて来るんだと思うんですよ。

「あの人ならわかってくれると思っているときの、
自由でのびのびした表現」
これが、とても大事なんだろうなぁと、
この頃あらためて、しみじみと思うのです。
よく、親バカっていうけれど、
きっと親っていうのは、子供を肯定的に見ているから、
「親の前では子供は自由でのびのびしている」んでしょう。
だから、他人よりもその子供のことを、
よく思う機会が増えることになるわけだ。

長くなってきたけれど、なーにが言いたかったかというと、
最初にもどるけれど、
「ほめる」は大事だってことだった。
いい気になってると、のびのびしてるは、紙一重。

「ほぼ日」も、この頃、のびのびしてるかどうか、
ちょっと心配になってきてますんで・・・。
いい気になってないとは思うんですが、
それだけじゃダメですからね。

1999-01-18-MON

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