ITOI
ダーリンコラム

<考えてもいけないことについて>

横尾忠則さんの展覧会に、もう一回でかけた。
こんどは、ご本尊、いや、ご本人がいらして、
便意をガマンできなくなるまでの時間、話ができた。
「もう一回見ても、おもしろくないよ」と、
本人が言うのだから、それに従うことにした。
なんとなく、その言わんとするところは理解できたので、
「会場のなかのオフィス」で、
背後の作品をながめたりしていたくらいだった。

ぼくの特にいいと思った作品は、
ついこの前に描いたものだったということだ。
富士の火口やら、自転車をこぐ帰還兵やらに、
無数の人間たちの顔写真がコラージュされているものだ。
あまりにも「そのまんまやんけ」という解説になるが、
顔写真の数だけ、その顔の持ち主の「思い」がある。
それを表現に組み上げる横尾さんの「思い」がある。
そのかけ算の結果が、この絵のなかにエネルギーとして
こめられているように、ぼくには思えた。

わけのわからない他者たちの思いを、
わけわからぬまま全部取り込んでしまおうという意志が、
「いま」の横尾さんの大きな動機なのかもしれない。

むろん、ぼくの我田引水的解釈なんだけれど、
こりゃまたずいぶんインターネット的だ。
さらに言えば、この会場で第1号を発刊した
「超私的 横尾忠則マガジン」という
<臨時刊雑誌>のコンセプトも、
ホームページの発想に近い。
横尾さんは、もっとも自分らしいやり方で、
次の時代の扉をあけたのかなぁと、ぼくは思った。

さて、「思い」の質量について、どうしてぼくが、
こんなにしつこく語ろうとするのかについて、
さらにもう少し語っておきたい。

前回の「脱線web革命」で、ぼくは、こう書いた。
この部分が特に言いたかったのだと、
いまごろになって気が付いた。
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こんなにいっぱい思いを生み出せるということが、
人間の持っている力なのかもしれない。
似たような考えを持ち寄っては、
「誰もがそう思うであろう」ひな形探しのための会議を、
毎日繰り返している「ビジネスマン」には、
こんなふうに「思う力」は、もう残されていないだろう。

ふたつとないものを探すのではなく、
全員が欲しがるなにかを探そうとする時代は、
人間の「思う力」を奪い取り、
役に立ちそうもない無数の「思い」を
絶滅に追い込んでいるのではないだろうか。
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自分自身がなにを感じるか、何を思うか、を
なおざりにして、
「お客さま」や「たくさんのお客さま」が、
何を感じ何を思うかについてばかり考えていると、
それがクセになってしまう。
考える力は、訓練できるような気がするが、
感じる力や思う力は、
生身の人間がいちいち感じたり思ったりを、
経験していかないと増えていかないのだ。
借り物のコトバで、森羅万象について述べることは、
誰でも上手にできるようになる。
(ただ、誰もが同じ正解を語るんだけれどね)
しかし、たったひとりの「私」や「あなた」が、
同じことを思っているはずがないではないか。
思いは思いであって、正解なんかない。
行為には「社会的にフィットする」必要があるのだろうが、
思いは、そうではないはずだ。

極端な物言いになるが、「ああ戦争がしてえ!」という
思いがあったとしたら、それは思いとして「ある」のだ。
憲法を持ち出して裁くわけにもいかないし、
「そんなことを思うな」と抑圧することもできない。
いまの社会における「正解」
しか思っちゃいけないとしたら、思いが滅亡していく。
夢で人を殺すことを、誰も裁けない。
夢で姦淫することも、他人に裁かれることではない。
横尾さんが、夢に強い興味を持っているのは、
その「思うことの自由」が、認めらられた場所だからだ。

ぼくらの思いは、日に日に貧しくなっている。
それに反比例するように、
考えてもいけないことが、どんどん増えている。
ファーストフードの店が全国をおおっていくにつれて、
「イナゴの佃煮」が消えていくような感じだ。
え?! イナゴの佃煮? キモチワルーイってね。

ぼくは、ノスタルジーで言っているのではない。
体格ばかりよくなって骨折しやすいカラダや、
Eカップだけれど母乳のでないカラダに、
未来への希望を感じないということだ。

いくらでも長くなりそうなので、このへんでやめよう。
「いくらテキスト原稿が軽いといっても、
webのページでは長いと読まないですよ」という意見も、
ぼくは聞いたりもしているんでね。
ほんとは、読まなきゃ読まないでしかたがないと、
思っているんですが(笑)。

最後に、いいぞ! と思った新聞記事。
縄文時代の発掘で、大発見があったらしいが、
その大発見の一部が「男根をかたどった」ものだった、と。
大新聞が、それとなく禁じ手にしてきた
「ちんちんの絵」が、縄文の思いとともに、
ここに表れてしまった。いいなぁ、写真も出てたよ。

感性を鍛えようなんて「考え」よりも先に、
「思えなくなってる」自分に、気付かなきゃダメだよね〜。

1999-01-25-MON

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