<ものみな笑われるか?>
若い読者は知らないかもしれないけれど、
ひと昔、ふた昔前は、「笑い」ってものは、
もっと「イケナイ」ものだったんだよ。
「まじめ」というのが世の中全体の価値規準になっていた。
だから、サブカルチャーとかカウンターカルチャーとか、
「そういうモンじゃないでしょう文化」というものが、
しょうがねぇ次男みたいに育っていったわけさ。
「まじめ」な父に対して、「不まじめ」であるとか、
「反まじめ」とか「非まじめ」であるとかをぶつけて、
かきまぜたかったってわけさ。
だから、ちょっと知恵つけたライターとか編集者とかが、
酒場でさ、
「だからさー、反まじめじゃないんだよ。
おれたちがねらってるのは、非まじめなんであってさ」
「そうそう、だから、不まじめにやるなってことよ!」
「な、そうだろ。反まじめってのは、まじめの裏表だろ」
「そうそう。非、なんだよな」「そうそう」
なんて、口角泡を飛ばしていたわけさ。
ちょっと、おかしいけどね。
モノクロのとは言わないけど、
色調整の悪いテレビ画面みたいななつかしさがあるね。
「笑っていいとも」というタイトルの番組も、
その前の「笑ってる場合ですよ」からの
つながりから、でてきたものなんだ。
「笑ってる場合ですよ」は、
「笑ってる場合じゃない!」ってコトバへの反論でしょ。
なんでも硬直したまじめさで判断する社会が、
変化しつつあるよってことを言ってるわけだよね。
お昼にテレビ観ている時間は、たしかに、
「笑ってる場合」のひとつに数えられるだろう。
で、「笑っていいとも」は、
もう少し攻撃的なコンセプトになっている。
テレビに出演するには危なすぎるということで、
「恐怖の密室芸人」とあだ名されたタモリを、
このまっ昼間に引っぱり出してきた。
トレードマークの怪しいアイパッチを外し、
サングラスをかけてもらう。
タモリというジャズ屋の隠語的なネーミングは、
正式にはここでは使わないことにして、
本名を冠にして「森田一義アワー」という、
NHK的な副題をつけ、
安心できる危なさを「笑い」という表現を核にして
日本中のお昼休みに宅配していったということだ。
ここにきて、
「笑って、いいの?」と度胸のない人たちに、
「笑っても、いいとも!」と自信を持って答える番組が、
登場してしまったわけだ。
まじめ、反まじめ、非まじめ、不まじめなんて、
分類をしているインテリの「まじめな枠組み」を、
それ自体がまじめだよね〜、とばかりに、
根拠なく、笑って「いいとも」と言い切ってしまった。
やがて、このタイトルは、何も意味しない
ただの固有名詞になってしまったように見えたのだが、
それでも、このタイトルの真意は、
ほんとに「笑っていいのかな?」という状況が来たときに、
あらわになってしまった。
昭和天皇の病状が悪化している時、そして、
いよいよ天皇が亡くなった時、
この番組は、「放送を遠慮」しなければならなかった。
なにより、番組タイトルが、イケナイものだということを、
社会が急に思い出してしまったのだ。
「いいとも!」と、冗談半分で
「笑い」を全肯定した番組が、
やがてメインのストリームをつくっていった。
「テレビ」は、「笑い」という武器を
使い放題に使ってもいいのだと、戦略的に判断したらしい。
いつでもどこでも、どんな場合でも、
「笑っていいとも」思想は、
無条件な前提になってしまった。
「笑っていいとも」のスタッフの言いだした、
半分は冗談の、ちょっと強がって言った部分が、
後追いの人たちには
当たり前のこととして捉えられてしまった。
どうしてそういうことになったか?
「笑い」は、受け手の反応を
直にモニターできる武器だからだ。
お客は、ある表現を受け止めて、
なにかの反応をするわけだけれど、
たいていの反応は見えにくいものだ。
しかし、身体が横隔膜をふるわせて、
時には声までたててくれる笑いという反応は、
受けたか受けなかったか、が「見える!」のである。
テレビ番組の商品価値を、
「見える」ようにしてくれたのだ。
どれだけ「笑いがとれた」かが、どれだけ「受けた」かと、
同じ価値を持つと誤解されるような時代がきてしまった。
だって、つまらなきゃ笑えないでしょ。
ほんとうにうけたからこそ笑ったわけでしょ、
という論理だ。
やがて、笑いのないものは「受けない」もの、
笑いのないものは「暗いもの」というような考えが、
世の中に蔓延していく。
そして、その後は、
どんな笑いでも「笑えりゃいい」ということになって、
時代は、「笑っていいとも思想」から、
「笑わなきゃいけない思想」に変化していった。
小劇場系の人たちが、笑いで観客を増やしていったのも、
この流れのなかで起こったことだろうと思う。
笑いというものは、けっこう取り扱い注意の危険物で、
「毒」があったり、「悪意」や「迷惑」、
「差別」「嫉妬」「劣等感」なんてものとの
接触面積の大きい感情なので、
笑いが天下をとる時代というのも、
幸福な時代とは言いにくいところがある。
青酸事件の容疑者の家が、しょうがねぇ若者の手で
落書きだらけにされているという報道を見たが、
あの現場にも、落書き犯たちの
狂ったような笑い声がこだましていたのだろうと思われる。
もう、ぼくは、「笑いの量」がそのまま
価値になるというような「つまらない時代」は
おしまいだと思う。
ぼく自身、笑いは大好物だけれど、
どれくらい笑わせられるかでの勝負は、もうできないし、
そういう試合が最高のゲームだとは
思えなくなってきている。
「笑っていいとも」というコトバくらいの、
過半数をとれっこないということをわかっている知性が、
ほんとの笑いをたのしむためにも
必要なのではないだろうか。
「ものみな笑われる」、では
人間の歴史がつまらくなりなすぎる。
・・・ただね、こういうことを言うためには、
もう少しぼくが
笑いの「現役」でないといけないんだけどね。
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