<ほんのちょっと余計に知ってること>
もう釣りのシーズンになったけれど、
ぼくは、まだ、バス釣りに行けてない。
しかたがないから、雑誌なんかをパラパラめくったっり、
行って釣れた人の話を聞いたりして、代用している。
なんだか高校生の部室のワイ談みたいだねぇ。
ちょっと釣り雑誌から距離をおいてながめると、
新しい発見があるものだ。
釣りの雑誌はたくさん出ているけれど、
読者がいちばん求めているのは、どうやら、
「ほんのちょっとの工夫で、仲間に釣り勝つ」
というような記事らしい。
ルアーの動かし方とか、新発売の道具とか、
ほんのちょっとの何かを余計に知っていれば、
すっごくいい思いができるというようなことが、
みんなダーイスキなのさ。
じぶんもそうだったよなー。
若い人の会話なんかでも、
「ほんのちょっと知ってる合戦」が、激しいよね〜。
そのネタのほうは、
なつかしのアニメの脇役の名前とか、アイドル裏情報、
便利なアプリケーション、近道やらサービス券の知識、
仕事先の担当者の好きなもの・・・山ほどある。
おもしろいんだ、それなりに。
それもゲームだからね。
みんな、いちどは、学校のテストに苦しんだり、
受験生を経験していたりしているから、
「たった1点の差で天国と地獄」、
なんていう思想教育を受けているわけで、
こういう傾向を、教育の問題にすることもできる。
さらには、「誰にでも得意なことはあるはずだ」という、
幻想も影響しているかもしれない。
そういうことって、親も先生も先輩も、よく言うもんねぇ。
いわゆるオタク的な知識の競争って、
努力の積み重ねで「ひとより上」になりやすいもんな。
ひとつ「他人より勝る個性」を持てば、
その自信が、彼の能力を全開にしてくれるという幻想ね。
ちょっと正しそうなんだけど、ちがうんだなぁ、これ。
ぼかぁ、ちがうと思うね。
「いつ追いつかれるか、追い越されるか」という、
恐怖のほうが強くなっちゃうんだ。
「負けないためだけに、ちょっと余計に知り続ける」
という人生はキツイわー。
とにかく、微差を争う試合というものは、
将棋の名人とかのような
超高度な世界でなら意味もあるのだろうが、
どうしても「あら探し」や「油断やスキをねらう」ばかりの
つまらないゲームをつくりやすい。
追求していくと、いずれ「運」だけが勝敗を決める、
というような、逆説的な事態になってしまったりする。
モノポリーというゲームなんかでもそうだったんだけど、
おなじメンツで技を磨きあっていくと、
みんなの技量がどんどん同じ水準になっていくんだよね。
「おれも、あいつも、
それぞれの考えていることがわかっている」
という状態になっていくのだ。
(ぼくなんかは、その次元からおちこばれちゃったと
思うんですけどね)
こういうレベルになってくると、
「まちがったプレーヤー」が混じったときに、
勝負弱くなってしまうのだ。
何が言いたいのかというと、
日本の「ほんのちょっと余計に知ってること」の差
で闘うような切磋琢磨ぶりっていうのは、
特殊な方法のひとつにしかすぎないってことなのだ。
「微差」じゃなくて、
「根本的な何か」を探しているようなとき(時代)には、
とてもひ弱なんじゃないかと思うのだ。
これは、国際競争力だとかが問われている時代に、
もろに関係あることだ。
ちょっとでも上とか、ほんの紙一重とかは、
ある局面ではとても大事なことだということはわかる。
ぼくも、何度もそういう説教をしているかもしれない。
しかし、そのほんのちょっとのちがいなんかを、
鯨のように呑み込んでしまうような相手と、
どうやって闘うかを視点に入れながらでないと、
「誰にもわからない素晴らしさ」ばかりになっちゃうよね。
『知っていること(情報)を誰よりも多く持っていれば、
どんなゲームにも勝つ』ってことは、ない!
やっぱり、いま重要なのは、
「枠の外を意識する」だと、ぼくは思っているんだ。
はい、今週もとっちらかってましたが、よろしくね〜。
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