<雑誌広告の人間観>
雑誌には、人間にとっての「人格」のように
「雑誌格」のようなものがある。
保守的な硬骨漢のような、
おしゃれな若妻のような、
ちょっとお茶目でセンスののいいティーンのような、
人間の強さについての探求者のような・・・
ほんとにいろんな雑誌の性格があるんだよねー。
これは、編集方針というようなもので、
厳しく細心の注意をはらって守り続けている
アイデンティティーというものなのだ。
「パリの朝を変えた、このハーブティー」
という記事のある雑誌に、
「春だ花見だ。出撃ちんこ3兄弟」などという記事は、
ふつうは並ばないものだろう。
そうしないようにしているから、
そうならないでいるわけだ。
ところが、だ。
広告は、編集部とは少しちがう動きをする。
「パリの朝がどうのこうの」という記事を、
熱心に読む人が、朝起きたときに、
「ぼんじゅーる」とかあいさつをする人でないことを、
平気で想像する。
「このままでは日本の教育が危ない」と激する人が、
いつも激しているばかりでないことを、
失礼ながら理解していたりする。
だから、笑っちゃいけないのだが、
「週刊新潮」の広告には、
天狗がにょきっと大きな鼻を突きだしているような広告が、
やたらに出てくる。
天下に渇を入れる意気軒昂なる読者諸氏も、
下半身の不如意には悩んでいると、
広告のほうはご推察しちゃっているわけだ。
同様に、「新しいグッチの店どうしたこうした」
という特集のある雑誌の広告には、
「資格があれば高収入」の通信講座の案内広告や、
「これで肥満とさようなら」の通販広告が出てくる。
「グレーシー柔術の死角がわかった」りする雑誌に、
オカルトグッズや包茎手術の広告が並ぶ。
もう、編集方針、だいなし、なんである。
雑誌のイメージという衣装を、
脱がせて丸裸にしてしまうようなことを、
広告がやってしまうのである。
失礼を、社内がやらかしてしまうのだから、
文句も言いにくい。
広告収入は、おおきな編集資金源でもあるのだし。
しかし、ぼくは、逆に「これでいいのだ」と、
天才バカボンのパパのように言いたい。
天下に渇を入れたがっている読者が、
天狗にょきにょきを求めていない人ばっかりだったら、
「怖すぎる」ではないか?!
その清さは、他の人間共とかけ離れすぎている、と言える。
同じように、
「ボンジュール」と「ほかほか弁当」も共存するし、
「押忍」の精神と「包茎の悩み」も両立すると思う。
まんま、何とかという雑誌のような人間が、
いるとしたら不気味ではないか。
広告媒体としての現実主義が、
編集方針のファンタジーの行き過ぎに、
歯止めをかけているとさえ言えるのではないだろうか。
無理をしてないというか、
5大栄養素をまんべんなく摂取しているというか。
広告を含めた「人間観」のほうが、きっと健康なのだ。
こんなことを書いていると、
「ほぼ日」はどうなんだ? と質問されそうである。
あははは、まだ、おそらく、
「現実」に相手にされるところまで育ってないんですよ。
天空の城のことなんざ、地上じゃ気にしてない。
いまに見てろよ、天狗の鼻の広告を入れてやるから!
あ、それは、冗談です。
それは、理念の勝ちすぎた意見ですね。
どーも失礼をばいたしましたっ。
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