<無敵感覚について>
自己紹介の趣味の欄に、
ツウ好みのバンド名やら、
誰も見てっこないような映画のタイトルを羅列して、
オドシをかけてるやつがいる。
ホントにそれが好きなのだろうから仕方ないけれど、
その、すっごくツウな作品や人々は、
その人がつくったものでもなければ、その人でもない。
ぼく自身も、若いときのこと恥をしのんで白状しますが、
「澁澤龍彦、稲垣足穂とか好きですね」なんて、
よく読めもしないで言っている時代がありました。
よく読めていたとしても、関係ないですけどね。
ジャズ喫茶ってとこに友だちと行って、
暗い顔してまずいコーヒーを飲んだっけ。
その無理してた頃に、阿部薫とかナマで見たんだから、
まんざら無駄になってもいなかったんだけどさ。
よく、広告制作会社のデザイナーのデスクに、
海外デザイナーの作品の切り抜きが、
ピンナップされていたりする。
それを、昔、ある先輩が、
「あれは、ああいうのが好きだってことで、
こういうのなら作れますよってことじゃないんだよ」と、
冷笑気味に教えてくれた。
「本人は、自分の作品だと思わせようとしているけどな」
それはまさか、とは思ったけれど、
他人の看板をかけているようなものなんだと思った。
自分のほめているもの力は、
自分の力とイコールではない。
このことを人はよく忘れる。
自分の力は自分でつくりだすしかないのに、
「ひいきの作家や選手」の強さを、
自分の力と錯覚していることがよくある。
いまのぼくは、なにかをほめるときには、
「負けた」という意味を含ませているつもりだ。
この、負けのチクッとした痛みの感覚がないと、
「無敵感覚」になってしまうのである。
もちろん、ぼくなんかが格闘技の選手をほめるのに、
勝ったも負けたもありゃしない。
サッカーのゴールキーパーをほめるのに
「自分よりすごい」なんて言うはずもない。
でも、それは、もう端から負けているのだから、
意識する必要さえないということである。
「負けました」の安売りみたいに思われるかもしれないが、
ほんとにそうなんだからしょうがない。
極真空手のフランシスコ・フィリオだって、
料理では板前さんに負けるだろうし、
歌では宇多田ヒカルに負けるだろう。
彼だって、格闘技以外のシーンでは
勝つことのほうが珍しいくらいだろう。
ぼくごときが、毎週全敗の生活を送っていても
不思議なことはまったくない。
なにか自分を自分以上のものに見せたいと思って、
ぼくらはいろんな小細工をする。
これはこれで、なかなか味があったりするものだけれど、
そういうことはやめたほうが、
毎日がおもしろく(そして苦しく)なるものだ。
そういえば、ずっと前に、選挙の立候補者が、
普通だったら推薦人を書くようなスペースに、
「私の尊敬する人々」と記して、
歴代の偉人の名前をずらずらっと並べているのを見た。
その偉人たちの列のなかに候補者が並んでいるような、
妙な効果があったが、やっぱり笑ってしまった。
はじめっから、この候補者、降りてるよね。
こういう例の逆に、やたら人をけなす人たちもいる。
いわゆる有名な人をけなすことは、
隣にいる人を悪く言うよりずっと簡単だから、
インターネットの掲示板なんかでは、よく、
人気者たちがボロカスに言われていたりする。
ボロカスに悪口言ってる人が、言われている人よりも
「たいしたもん」に見えるはずもないのにねぇ。
なんだか、せつないものがある。
どっちも、自分と「ほめるなりけなすなり」の対象が、
別の世界に分けられすぎていると思うのだ。
これだと、「ちゃんと負ける」ことができない。
ケンカにもならないのだから、ある意味で「無敵」なのだ。
この無敵感覚は、客席のものだ。
競技のフィールドで、無敵はありえない。
勝負をしている人なら、勝率5割がどれくらい困難かを、
ようく知っているはずだ。
誇大妄想と言われようと、ぼくは、
よく負けることを続けていきたいと思う。
『無敵だってこたぁ、なんでもねぇってことよ。』
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