<変わるということへの尊敬>
坂本美雨ちゃんのページが登場したことで、
いろいろ考えさせられた。
ぼくには、彼女は「ちっちゃなこども」であって、
その後のことはほとんど知らないのだから、
ぼくの知ってるみうちゃんと、
いまの美雨ちゃんとは、すっかり変わっていて、
「別の人」であるとも言えるのではないか。
それは、自分のこどもにしてもおなじことで、
ある意味で、昔の彼女と現在の彼女は、別人とも言える。
よく、「あの人は変わってしまったわ」なんてセリフが、
よくない意味で使われるけれど、
これはその人の「よいところが失われてしまった」
ということなのだろう。
しかし、だからといって「変わらない」ことが
絶対的によいことであるとは言えないはずだ。
はやい話が、ぼくの知ってる美雨ちゃんが、
変わらないままであったら、
いまでもぼくに会ったら泣くはずだし、
うちの娘は「土星さん文字」を書いているはずだ。
彼女たちだけでなく、
すべての人間のこどもたちが、
変わり続けるための「試練」を日々戦ってきたことを、
親をやってきたぼくは、よくわかっている。
全然ちがうことみたいだけれど、
フィリピンパブの女の子たちのしゃべる日本語は、
彼女たちが必死で「変わってきた」という証だと思う。
どちらも、ぼくは尊敬する。
オトナだって、おんなじであることに甘えてちゃ
申し訳ないんじゃないだろうか。そう思う。
ぼくにしても、20代のときから変わらないでいたら、
いまやっているどんな仕事もできないだろうと
断言できるね。
ちょうどいま、同居人でもある「ほぼ日」レギュラーの、
カグチヒナコさんが、新しい舞台の猛稽古で、
毎日「おから」のようになって帰ってくる。
でも、楽しいのだそうだ。
岩松了さんの脚本や竹中直人さんたちとの
コラボレーションに参加して、
血液の入れ替えをしているように見える。
これはこれで、手前味噌に思われるかもしれないけれど、
尊敬します(原稿がないのは編集者としては残念ですが)。
変わりながら、変わりたいと必死になりながら、
変わってはいけないものを探すこと。
これは、なかなか容易ではないのだろうが、
「おれは変わらない!」なんて威張りくさっている人には
うらやむことすらできない、楽しいゲームだ。
「ほぼ日」、まだ生後半年のこどもなので、
もっとがつがつと変わっていきたいと思っています。
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