ダーリンコラム |
<混んでいるということ> 大晦日の「徳川埋蔵金発掘ライブ中継」を終わってから、 ずっと考えていることがある。 「いまの時代にぜひ見たい経済番組」として作ろうと、 言いだしたのはぼくだったけれど、作っている過程で、 ぼく自身にとっての大きな発見があった。 それは、当時のフランスの投資家たちが、 どうして莫大な資金を日本の政府(幕府)に貸したのか、 という問題だった。 今回の番組をやるまでのぼくの推理は、 ________________________ ◆幕府が「担保」として 「大量のナニカを埋蔵したという事実」をつくり、 それを小出しにリークすることで信憑性を演出した。 (だから、穴の工事はあった) ________________________ というものだったんだけれどね。 そのうえで、もちろん、 現物が出てきたら、 やっぱり「工事だけ」じゃなかったのか、 とあらためて驚きたかったわけだ。 しかし、番組のビデオ部分を取材しているうちに、 もうひとつの考え方がでてきた。 ゲストの竹村健一さんが、スカッと言い放ったけれど、 「担保のあるものに投資するなんて馬鹿でもできる」という考えが、 それまでのぼくには理解できてなかったのだ。 そうか。従来の日本の銀行を中心とする経済システムに、 すっかりなじんでいたせいで、 投資というコンセプトが理解できてなかったわけか。 要するに、 「日本という国は、将来、富を生み出す」という 国のポテンシャルに、フランスの投資家は 大きな資本を投入したのだ。 そういう考え方が、いまごろになってわかったわけだ。 その考えをとるかぎりでは、 担保としてのバーチャルな埋蔵金も必要ないし、 ましてや現物の金というものは必要ないことになる。 「ポテンシャル」か?! ポテンシャルってイメージを、ぼくは恥ずかしながら 持ったことがなかった。 そういえば、そうだ。確かに、それはある。 例えば、いまだったら「藤井隆」に借金を申し込まれたら、 きっとたいていの人は投資のつもりでオッケーするだろう。 逆に、いくら大物扱いされていても、 投資するわけにはいかないという人たちもいそうだ。 「こいつなら返せる気がする」というのが、 投資家にとってのポテンシャルの意味だ。 返せるどころか、増やせそうだというならもっといい。 さて、では、と考えるのだ。 当時の江戸時代末期の日本に感じられたポテンシャルとは、 いったいどういうものだったのだろう? きちんとした研究者なら的確な説明をするのだろうが、 ぼくだから、直感的に考える。許せ。 「人々がよくまじめに働く」 「教育水準が高い」 どっちも納得がいくのだけれど、 それだけじゃ、ムードがでないのだ。 「ポテンシャル」には絶対にムードが要ると思う。 それが「活気」とか「目が活きている」とかいう、 ちょいとわけわかんないけど大事なことなんだ。 そのムードが、きっと日本にあったのだ。 ここで、ぼくは一気に答えを出してしまう。 ムードのもとは「日本は混んでいる」っていうことなのだ。 根拠ないけどね、考えるだけの価値はあるよ。 こんな狭い島国に、これだけ多くの人間が住んでいて、 飢えた人も(ほとんど)いない。 人間が多いからどこに行ったって「にぎやか」だ。 このにぎやかさ、この人混みが、 ポテンシャルそのものに見えるのだと思う。 そういえば、アインシュタインが日本に来たときにも、 すごいエネルギーを感じたとか感心して帰ったという。 外交辞令ではなかったのだと思う。 「混んでいる」ようすが、ポテンシャルに感じられたのだ。 さて、そういうやや強引な考えをもとにして、 いまのいろんなことを見てみる。 いまの日本も、まだやっぱり混んでいると思う。 この混んでいる感じがあるかぎり、きっと、 復興のポテンシャルはあるのだろうと、ぼくには思える。 じゃ、「ほぼ日」はどうなんだ? いやいや、目次を見てもおわかりでしょうが、 混んでますよー。 読者も加速度的に多くなっているしね。 ただ、この人混みにもまれて息ができなくなっちゃったら、 だめなんだろうな。 さまざまな失礼、不手際、多々あると思いますが、 しばらく我慢してつきあってください。 もっとこの混んでる感じをひどいことにしてやりますぜ。 じゃんじゃん、おともだちなど誘って、 毎日訪れてくださいな。 |
2000-01-24-TUE
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