ダーリンコラム |
<ゴールドラッシュの空の箱> 昨夜は、ぼくの大好きなスポーツ番組、 「Gスポーツ」の制作スタッフと初めて会って、 ほんとうにうれしい時間を過ごした。 あれだけのすばらしい番組なのに、必ずしも内部外部の 評価がいいというわけでもないらしい。 ぼくは、なんだか、自分のことのように、 そのうちきっと正当な評価をされるだろうということを、 つばを飛ばしてしゃべっていたように思う。 その時に、どういう話をしたかったのか、 ここでいまからまとめて書いてみよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ インターネットは宝の山なのだそうだ。 かつての西部劇時代のアメリカに 「ゴールドラッシュ」という歴史があって、 その時の金にあたるものがインターネットなんだという。 そうかもしれない。 インターネットのない未来が想像しにくくて、 しかもインターネットの普及率がそれほどでもない現在に、 金鉱の堀手になることは正しい選択なのかもしれない。 確かに、ゴールドラッシュという事件がなかったら、 新しいアメリカの人々は、 あんなに西へ進んでいかなかったろう。 東海岸に漂着した人々が、東海岸で自分たちの居場所を、 ていねいに作り上げていったら、 アメリカの現在はなかったろうと思う。 熱にうかされるように西に向かって移動した人々がいたから それを運ぶための鉄道も敷かれたのだろうし、 その大勢の人々の暮らしを支えるための産業も発展した。 その意味では、過剰な高熱にうかされたようになることが、 若い市場を発展させるためには大事なのだろうとは思う。 あとで考えたら熱病だったというような 若気の至りの恋愛がなかったら、 結婚なんて一生しないだろうと思う。 あ、いや、これは、人間というほ乳類の一般論としてです。 ぼくは、結婚してよかったと思っています。 つまり、クールで的確な判断だけでは、 おおきなうねりを生み出すパワーにはならないということ。 現在、かなり懐疑的に語られている インターネットバブル的な状況も、 未来の社会を生み出すための「激しいハネムーン」のような 大人が見たらけっこう恥ずかしいものなのだろう。 そのうち「つわり」のような苦しみを味わうかもしれない。 ぼく自身が、「ほぼ日」というインターネットに 大いに関わる仕事を毎日やっているし、 このコラムを読んでいる読者は読者で、 インターネットに接続してこれを読んでいるのだから、 インターネットの現在や未来に興味を持たないわけはない。 ぼくのできないことをなんでもできる友だちが、 インターネット・ゴールドラッシュ説に、 いい喩え話をしてくれた。 ___________________________ ◆『ゴールドラッシュの時代に、 西部に夢を持って出かけていった人のなかで、 いっぱい金を掘り出して歴史に残った人って、誰ですか?』 そんな人間の名前は、誰も知らないでしょう? いないんですよ、そんな人は。 後世に残っているのは、夢だか欲だかに燃えて 金鉱で掘ったり川で砂金を集めたりしていた人じゃなくて、 その人たちにスコップを売った人だの、 弁当を売りに出かけた人だの、家を売った人だの、 売春宿を建てた人なんですよ。 ああ、ジーンズをつくった人なら、みんな知ってますよね。 商売が目的の人は、みんなそういうことを知っているから、 自分じゃ掘らないんですよ、インターネットも。 線路敷いたり、発電所をつくったりね、 車売ったり、商店街つくったりを、争うようにやっている。 なにがビジネスになるかってのは、 金の堀り方が上手だってこととは関係ないんです。 インターネットがゴールドラッシュだとしたら、 金っていうのはなんなのか? いったい、その金にあたるものはなんなのかも、 そこでビジネスするだけなら考えなくてもいいんです。 ___________________________ すっごい喩え話だった。 その通りだと思った。 しかし、それを聞いても、ぼくはやっぱり インターネットのおもしろさと、自分にとっての可能性を、 もっと追いかけてみたいと思った。 いまのインターネットの環境整備ビジネスは、 あまりにもおりこう過ぎるように思うのだ。 ビジネスになる部分だけにみんなが集中したら、 発電所とか鉄道とか食堂とか商店街とか売春宿ばかりあって 肝心の「金を掘る大勢の人々」が すっかりいなくなった西部みたいなことにならないか? 本屋ばかりがあっても、作家がいない。 せっかくできた村の美術館には、一枚の絵もない。 劇場がオープンしても踊り子がいない。 土俵はあっても、相撲取りがいない。 つまり、ビジネスの得意な人々が、 みんな富の生産システムに殺到していると、 その消費側を豊かにする仕組みが手薄になってしまうのだ。 いかにもインターネットの時代らしい事業は たくさん生まれるけれど、 それは、どれも水道管を張り巡らせるようなものばかりだ。 あるいは、その水道の蛇口のいろいろのようなものだ。 どんな水が飲みたいかなんてことについて考えてなくても、 ビジネスは成り立つのかもしれないけれど、 水が飲みたいという人間がいなければ、 水道工事の意味はまったくなくなってしまう。 西部開拓史で考えてみたって、 金(ゴールド)そのものの価値が低くなったら、 誰も金鉱で働く気なんかなくなってしまうだろう。 たしかにこれから、もっと情報社会になっていくだろう。 ソフトの経済、ソフト中心の未来がくるのはわかる。 しかし、ソフト社会とは、 「ソフトの配り方が発達した社会」ではないのだと、 ぼくは、思う。 テレビのチャンネルが衛星をつかって何万に増えても、 そこで流すためのソフトが自動的に増えるわけではない。 そのうち、ソフトが決定的に足りないことに気づくだろう。 箱さえあれば、システムさえできればなんとかなる、 と甘いことを考えていたビジネスの主役たちが、 魅力のあるソフト、みんなに喜ばれるソフトを、 必死で探し始めるだろう。 その時こそ、「ソフトを生み出す力のある人」が、 きっと必要になるはずだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「Gスポーツ」のような良質の、信頼感のあるソフトが、 かきあつめの金や人によって作れるはずがない。 きっと、「実は、いまはソフト欠乏時代なんだ」と みんなが気づいたときに、あのスタッフのやってきたことは 正当な評価を受けるにちがいない。 ちなみに(勝手に宣伝しておきますが)、 『G(ゲット)スポーツ』という番組は、テレビ朝日系列で 日曜日の深夜1時か1時半から放送されています。 全国ネットでないらしいので、映らないローカルの方には もうしわけありません。 この番組を素材にした雑誌も、先日発売されました。 『ゲットスポーツ』というタイトルで 日刊スポーツ出版社から780円で出ています。 「ほぼ日」もがんばります。 あの番組ほどのクオリティはどうかはわかりませんが、 読者のクオリティだけは負けない「ソフト」ですから。 |
2000-01-31-MON
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