ITOI
ダーリンコラム

<震えるということば>

今日もびゅんびゅん書き飛ばし。

あれ、読んでおいてよかったなぁって記事が、
新聞や雑誌のちょっとした場所にあることがありますよね。
最近では、なんだろう、んー・・・
ああ、ひとつ思い出した。
まじめそうな(って表現も変だけど)宗教学者の人が、
「宗教を社会のルールにマッチしないからといって、
なんでもかんでも変だという考え
ってのはちょっと考えものですよ」ってなことを
書いていたけれど、あれは読売新聞だったっけなぁ。

ああ、こういうこと自然に書いても大丈夫になったんだ。
オウムの「悪」を総攻撃しているうちに
ごくふつうの人間のなかにある宗教的な成分を、
全部否定してしまうような風潮に、
大新聞のなかで「ちがうんじゃない?」と
言えるようになったんだなぁと思いながら読んだっけ。

テレビで言えば視聴率のかんばしくなさそうな番組とか、
新聞だとちょっと大勢の人が読まなそうな面だとかに、
じぶんにとって大事な情報があったりする。

ぼくは、そういうなかでも、
精神科医の人が書いた短いエッセイのような記事が、
いまでも忘れられないでいる。
雑にまとめるとこういうことだった。

『ある自閉症の男の子の治療をしていた。
その子は、なかなか心を開かないようで、
何を質問しても決してコトバを発することはなかった。
しかし、ある時に発見したのだ。
その沈黙する子供のひざ頭が、
聞かれていやな質問の時には小刻みに震えていることを』

800字程度の文章だったけれど、
これは読んだ瞬間に、すごいショックを感じた。
ひざの震えが、コトバなのだ。
声帯を震わせるかわりに、
なにかの意味を伝えるかわりに、
ひざの震えで「いやだよう」というような気持ちを
表現することだって、人間にはある。
考えてみれば当たりまえのことだ。
しかし、それを読んだころのぼくは、
たいていのことは、コトバで伝えられる
「ような気がして」いたのだと思う。
そういう気持ちがなければあれほどのショックは
受けなかったろう。
「まだコトバというかたちにはならない」けれど、
何か感じたり思ったりしている時というものが、
精神の病を持った子どもだけでなく、
ぼくらにもある。それはじぶんでも思い当たる。
ほんとうは、世界はコトバよりも多くの
コトバにならないコトバに満ちているのではないか。
そんな当たりまえのことを、
ぼくはその短い文章を読むまでわかっていなかった。
ほんとはわかっていたけれど、
かたちにできていなかったということなのかもしれない。

「ほぼ日」で、毎日のように「今日のダーリン」を書き、
毎週この「ダーリンコラム」を書いていると、
若い読者の方から、
「ことばにしてくれてありがとう」というような
メールをよくもらう。
いやいや、コトバにできてなんかいないって!
できていないけれど、なんつーの?
「ひざの震え」ごと書いちまえ!という気持ちで、
急いで、思いのあったかいうちに、さめないうちに
届けているだけなのですばい。
文章の美しさとか、論理的整合性とかを、
本気で考えはじめたら、こんな量をこんな速度で
届けられないですよ。
時々は、じぶんでもめっちゃくちゃだと思うもん。
しかし、読み手のほうが、
ぼくの「ひざの震え」まで読みとってくれるという
甘えた気持ちがあるから、なんとか通じているだけだ。

もちろん、印刷のメディアでもそういう方法で、
危ない橋を渡ってきているインチキなワタクシですが、
インターネットになって、さらにその傾向が
ひどくなってきている。
もちろん、なんでも書いてしまえばいいんだというような
単なる乱暴を働くつもりはない。
あえていいわけがましく言えば、
「まるごと伝わってほしい」という思いがあるのだ。
これは、インターネット経験をしてないときには、
わからなかった感覚だ。
でも、いくらインターネットになったって、
あの新聞のあの短い文章を読んでなかったら、
もっとコトバを怖がってつかっていたろうと思う。
コトバのかたちをしたコトバで表せることと、
コトバのかたちになってないコトバと、
両方があってはじめてコトバなんだという気持ちで、
気楽に、それまでよりも自由にコトバを
使えるようになったのは、
あのコトバ(文章)のおかげだ。

ほんとに、あれ読んでよかったなぁ。

2000-02-07-MON

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