ダーリンコラム |
<警察官になった動機とは> 今回も、整理しきれないままに書いてみます。 きちんとまとめるよりも、 したしい友だちとちょっとまじめに話すときのように、 書きはじめてみます。 鳥越俊太郎さんの「ザ・スクープ」を見た読者の方々から、 たくさん意見や感想が届いています。 神奈川、新潟の県警についてはニュースになったけれど、 埼玉県の上尾警察については、 あまり警察の問題としてはとりあげられてなかった。 ところが、よく調べると、 警察のとんでもない動きがわかった、という番組だった。 むろん、それを観ての怒りはあるわけです。 読者も、ぼくも、「ひでぇ!」と思ったわけです。 特に被害者の周囲の方々や、さらに言うと、 自殺したストーカーの兄であり、 殺人の被疑者として裁かれる人間までが、 怒っているという構造です。 おそらく、この「警察事件」は、 今後も、メディアがまじめに、 あるいはセンセーショナルに追いかけていくことでしょう。 警察は、なぜ、そういういい加減なことをしたか? 番組を見ていても、それはわかりませんでした。 ある市民が、とても困った目にあっている。 それを真剣に相談しにきている。 それをまともに取り合わない、どころか、 訴えを取り下げさせようとさえしたらしい。 どうして、そんなことをするのか、 理由が見えにくいのです。 ただ単純に、自分たち警察の仕事を減らして、 面倒から逃げたかったのか。 もっと他に事情があるのか、それがわからない。 ただ、それは、もしかすると、 ぼくがよく言っている、 「世の中にまずいラーメン屋があることがわからない」 というようなことなのかもしれないとも思うのです。 人間の命が関わっている問題については、 ぼくらは、どうしても慎重に言葉を選んで発言します。 しかし、人間の命に関わる問題だからといって、 感情的のレベルだけで語り合っているわけにもいきません。 ラーメンの話と、命まで関わっている警察の話は、 たしかに、並べて語ると不謹慎に見えます。 ただ、問題の構造に近いものがあると、ぼくは思うのです。 つまり、それは、職業的「動機」と、 「価値判断」の問題に思えるのです。 まずいラーメン屋には、ラーメンをおいしく作るという 「動機」が欠けているのだと思うのです。 自分ではせいいっぱい「おいしいラーメンを作っている」と 思っているのに、とんでもなくまずい店もありますが、 そういう場合は、 「うまい」という価値の判断ができていないのでしょう。 それは警察にしても同じで、 なぜ警察官になったのか、という動機は いつも問われているものでしょうし、 警察のやるべきこととは何か、 どんなことに警察の価値があるのかという判断も、 時代の流れの中で変化していくものでしょう。 ラーメン屋のおやじさんについては、 その動機と価値判断を、危機感をもって 日々とらえなおしていくのは、自分の仕事です。 それができていなければ、お客さんは離れていきます。 それでも、「どんなんでもいいや」という お客さんがある程度は来てくれるから、 まずいままで商売が続けていられる という側面もありますが。 警察のなかでの「動機」や、「価値判断」については、 ひとりひとりの警察官ができる種類のものではありません。 企業には企業理念があり、そこで働く人々は、 その理念に沿ってというかたちで動機を新鮮に維持します。 しかし、ほったらかしにしておいたら、 動機も価値判断もめちゃめちゃになってしまいます。 だから、リーダーシップをとるべき経営者は、 企業内モラルの向上とか言いつつ、 いつでも「この会社は何のために、何をするところなのか」 について、しつこいくらいに社員に語り続けています。 もっと言えば、 考えが古くなって時代的に機能しなくなったと感じた時には 大胆な大鉈をふるってでも、動機や価値について 社員にわかってもらおうと経営努力をします。 自分のやっていることが人々の役に立っている という実感がないかぎり、 人間の動機を維持し続けることは困難です。 それを知っているから、 優れた経営者たちは、絶えず企業の内部の モチベーションを上げるために工夫をしています。 警察について、そういう目であらためて考えてみます。 警察の内にいる人たちの中には、 動機も価値もしっかりしている人がいるのかもしれませんが ぼくらの目には、それが見えないのです。 俗な言い方で言えば、 「俺たち、なんで警察やってるんだっけ?」という とんでもなく素朴な疑問に対して、 警察の上の方にいる人たちが、どう答えるのか、 想像ができないのです。 月給をもらうため、生きて食っていくためというのも、 大きな理由ではあるでしょうが、 それ以上の何かがなかったら、 つらくて危険な仕事をやっていく動機は 形成されないのではないかと、ぼくは思います。 「市民にいばりたいから」ということでも、 「白バイでかっ飛ばしたいから」ということでも、 それなりの動機にはなるでしょうが、 それだけでは、例えば桶川の女子大生の訴えを きちんと聞いて対処する理由にはなりません。 まがりなりにも警察で、 そんな初歩の初歩みたいなことを、つまり、 「諸君はなにゆえに警察官として生きておるのか?」 なんてことを、いちいち確認する必要はない、 と、考えているのだとしたら、 警察のお偉いさんの人間理解の浅さは、 責められてもしかたがないでしょう。 「俺たち、なんで警察やってるんだっけ?」に、 きちんと答える必要がないということは、 『警察は正義の味方で万能だ』という、 ありもしない幻想を思考の基盤に置いているからでしょう。 そんな、バカなことがあるわけないじゃないですか?! これは、一般にマスコミにもある傾向です。 『正義の味方で万能』であるはずの警察が、 正義にもとることをしでかしたとか、 失敗をやらかしたということを責めたり騒いだりしても、 なんにも変わらないのです。 そんな天与の倫理や権力が、人間にあるわけはない。 悪いこと、悪いやつ、悪いこころを、 持ってない人はいないし、 いい人だから警察に就職したなんてことではないはずです。 「誰を信用していいかわからなくなった」とか、 簡単に言う人だって、いまの上尾署に勤めていたら、 ひょっとすると、同じことをしていたかもしれない。 「私はするわけない」とは、言い切れないはずです。 精神主義的に「信じられナーイ!」とか囃したてても、 よい方向に変化するとは考えられません。 動機も価値判断も、個人の倫理に頼っているかぎりは、 いい警察官は、ますます苦しくなり、 ろくでもない警察官は、反省したふりをするだけで、 きっと一件落着になってしまうでしょう。 おそらく、腐ったシステムの機能している場所では、 自分も腐っていることが最も安全だからです。 警察官にとって、なにが罪でなにが罰かということさえ、 動機がなく価値判断のできない世界では わからなくなっているはずなのですから。 警察としては、おそらくこうして騒がれれば騒がれるほど、 市民の信頼を失って捜査協力が得られなくなると、 大いに心配していることでしょうね。 『警察は正義の味方で万能、という幻想が壊れたら、 民間の人々は尊敬も怖れも感じなくなるだろうし、 もっと言いたいことを言い放題に言ってくるだろう』と。 それでも、いま、どこに問題があるのかについて、 マクロな視野での見直しが必要でしょう。 情報公開すれば、きっと警察の失敗やだらしなさが 明らかになってしまう。 それは、学校の先生とか医者とか、 「高潔な精神性」や「倫理」を前提にした職業の人々も、 まったく同じ立場に立たされているわけで。 いまは、個人の「倫理」を前提にした職業なんて、 ほんとは成り立たないんだと思うんです。 悪いやつ、悪いこころは、絶対にある。 「ある」ってことを、可能性として考えて ルール設定をやりなおさないと、 結局精神主義的な訓辞のくりかえしになっちゃうでしょう。 ものすごく単純に言えば、 いま広告屋としてのぼくが、 警察の広告を依頼されたとしたら、作りようがないのです。 理念が見えず、動機を維持することもできていない、 価値判断も個人まかせというような企業の広告が、 作れるでしょうか? だいたい、どの立場の人が、 警察という組織のオリエンテーションを やってくれるのでしょうか? 「どうして警察やってるか」の疑問に答えられないのは、 ひょっとすると、トップに近い人々も 同じなのかもしれない。 「襟を正す」とか、「一層の努力」とか、 気持ちのありようの問題でなく、 こういう時こそ、有望な若い人たちに 「いまだからこそ、あえて警察官になりたい」と 思わせるような、期待をはらんだ 新しい時代のルールやシステムを考えるのが、 『警察という企業経営者』の人たちの 大事な仕事なのではないでしょうか。 |
2000-03-13-MON
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