ITOI
ダーリンコラム

<肩書きのこととか>

このごろ、取材を受けたりすると、
終わりかけの時に、
「肩書きはコピーライターでよいでしょうか?」と、
よく聞かれるようになった。
答えは決まっていて、「なーんでもいいっすよ」だ。
何でもいいと言われても相手は困るわけで、
コピーライターか、ほぼ日刊イトイ新聞編集長かに
どこかで落ち着くことになる。

一部では、コピーライターをやめたという
噂もあるようだし、たしかに
広告の仕事をほとんどしていないから、
やめたと言われても仕方がないのかもしれない。
やめたんじゃなくて、頼まれないのだから、
できるわけがないというだけだ。
広告制作の仕事は、代理店内部の制作者がやったほうが、
コストも安くつくし、場数を踏んでいくことで
実力もついていくのだから、
わざわざ外部のフリーの人間に依頼することが
減っていくのは、この時期当然のことだと思う。

ただ、広告制作の仕事はしていないけれど、
商品開発や、企業戦略に関わる仕事はしているので、
大きい意味では広告業界にいるような気はしている。
必要とされる仕事の質が変化しているのだ。

よくぼくは、たとえ話で言うのだけれど、
最高のコピーを作ったとしても、
キツネやタヌキしか住んでないような山奥に、
大看板立てたところで、効果なんかありゃしない。
そういうことを考えるのも、本当は、
コピーライターの仕事の範囲だと思っていたのだが、
世間ではまだ、「うまい文句を考える人」が
コピーライターだと思っているらしいから、
そういう意味では、いまのぼくの仕事は、
違っているのかもしれない。

もともと、アイディアを出して、
コトバにしていくこと、
そして、それを活かす方法を考えること、
そういうすべてが出来ないとコピーライターという仕事には
ならないと、ぼくは考えていたから、
自分のやっていることは、すべて、
「コピーライター」としてやっていたつもりだった。

本を書くことも、編集することも、作詞することも、
ゲームをつくることも、新人を見つけることも、
スポーツ観戦することも、司会することも、
埋蔵金探しをすることも・・・
なんでもコピーライターならできるはずのことだと、
ぼくは言い張って、仕事をしてきた。
だって、そういうこと、全部、
アイディアとコミュニケーションの技術でしょう?

しかし、やっぱり、世間はそういう論理を認めにくい。
広告にコピーというものがある以上、
それを作る人間をコピーライターと呼びたいのだ。
でもねぇ、それじゃ、つまらないんだよ。

守備位置からちょっとずれた打球を捕ろうとしない野手は、
エラーが記録につかないでしょ。
でも、守備範囲の外側まで飛びついて捕るから、
投手の自責点も減らせるし、勝負に勝つんだよ。
もっと言えば、コーチの指示がなくても、
相手打者に合わせて守備位置を変えていたり、
マウンドに歩いていって、投手を励ましたり、
そういうことすべてが野球選手の仕事なんだよね。
それと、同じなんだと思うんだよ。

そういうことを言いたいときには、
肩書きってやつは、邪魔なんだよなぁ。
だから、外野も内野も観客席もぼくの守備範囲です、と、
ぼくは言い張ってきたんだと思う。
コピーライターはなんでも出来るんです。
別に速く走ったり高く跳んだりすることはできないけど、
コミュニケーションに関わることなら、
なんでもできるし、やれなきゃダメなんです。
そういう立場をとってきたわけだ。
けっこう、無理をしていたとは思うんですけどね。

だけど、もう、そういう守備範囲を広げるという方法さえ、
いまでは違うんだと思えるのだ。
問題も、ルールも、いままで通りじゃないところから、
無数に降り注いでくる。
こういう場合には、これが必要だとか、
こんな時には、こんな答えが欲しいとか、
想定して問題解決できるようなことは、
もうあんまりないのだと思うんです。

きっと、他の職業だってそうでしょう?
医者をやっていて、脳死について考えることは、
いつ学校や先輩に習った?
酒屋さん相手に営業の達人をやっていた人が、
コンビニをどう考えればいいわけ?
怒ってもなだめても授業を聞かない生徒を相手に、
学校の先生はどういう指導をすればいいの?
(なんだか井上陽水の歌みたいになってきたなぁ)

もともと、ひとりの人間が
ある職業に就いているということは、
かなりの偶然性によっているのだと思う。
経済学部に落ちたから法学部に入ったとか、
親がどうしてもと言ったので医学部だとか、
勉強の課程でもうすでにあいまいになっている。
職業に就くときにしたって、
出版社に入れなくて商社に入ったとか、
友人に紹介されて料理人になったとか、
そのひとりひとりの人間の資質に合った職業を、
彼が選んでいるということは、あんまりないだろう。
だとしたら、経験だけが、彼の専門的な自信を
支えているということになる。
(その経験だって、いい加減にやってりゃ身に付かない)

にもかかわらず、みんながけっこう、
肩書きをぎらぎら光らせて、専門家ぶったりしている。
もしかしたら、その職業にほんとに向いている人が、
1年間ばっちり勉強したら、
追い越されてしまうかもしれない程度の技能しか
持っていなくても、肩書きがあれば
「キミにはわからないんだよ」なんて威張っていられる。

そんな、運転免許程度の技術や技能が、
これからは、どんどん無能化していくだろう。

若い人たち、どうか、肩書きを目指して努力するのでなく、
その肩書きの可能性について、夢みてほしい。
ぼくの、コピーライターという職業名も、
いつまであるのかわからない。
しかし、コピーライターのやること、やれることは、
そういう肩書きがなくても、もっともっとある。
どこから降ってくるかわからないような問題を、
次々に新しい方法で答え続けていくのは、
いままで学校で習ったような固定的な技術ではない。
スポーティで、流動的な、
身のこなしに近いような何かなんだと、ぼくは思う。

ま、しばらくは、ぼくの肩書き問題は、
「なんでもいいっすよ」で、ごまかしていこうと思う。

『母親だからって、
いちばん私をわかっているとは言えないわ!』
という台詞を、いまふっと思いついた。
無能化していく肩書きのなかには、
ひょっとすると、血のつながりに関わるものも、
含まれているのかもしれない。

へい。今週も、しゃべりっぱなしで、お粗末さまでした。

2000-03-20-MON

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