ITOI
ダーリンコラム

<自分の時間ということば>


毎度おなじみの急いで書き飛ばしシリーズです。
これ書き終わったらすぐに富山に向かって
飛行機に乗らなきゃならないんでして。

日曜日に、シアターコクーンでの舞台『悪戯』に行った。
先日「ほぼ日」でライブ対談をしたばかりの
小林薫ちゃんと、
おなじみ「カナだから、の手紙」の
カグチヒナコさんが出演しているのだから、
観ないはずはないけれど、行ってほんとによかった。

岩松了さんの脚本と演出で樋口可南子さんが
出演するという機会は、これで三度目になるのだけれど、
一作ごとに、「いっしょに作っている質量」が
高くなっているのがよくわかって、おもしろい。
いっしょにつくってきたという経験が、
「次のつくりごと」のレベルを上げていくのだ。

よく野球で、「優勝経験のある選手がほしい場面」
とかいうけれど、ああいうことと同質のものなんだろうな。
選手自身は作戦会議に直接加わっているわけじゃなくても、
「いっしょに作っている」ことが、
高さを上げていくのである。

ひさしぶりに観た小林薫ちゃんの芝居も、
おお、いろんな舞台を踏んできたんだろうなぁと
しみじみ思わせる「巧みさ」と「思い切り」があって、
おたがい、だてに年取ってるわけじゃないもんね、と、
うれしくなった。

若い人たちの「できること」の水準が高いのも、
いいチームを感じさせる大きな理由だった。

なんだか、岩松了という人の「理想」ってものが、
どういうものなのかが、のぞき見できたような気にさせる
おもしろい芝居だったなぁ。

翌日が休みという安心感もあるらしく、
座長・小林薫様のおごりで、みんなで焼き肉屋に行った。
そこで、また、前の対談の時にも出た話が出た。
もともとは、ぼくが、「大人計画」の松尾スズキさんと、
雑誌の『鳩よ』で対談をした時に出た話だった。

松尾さんが、芝居をはじめて間もない頃に、
劇団の仲間が、いろんな理由でやめていったという話だ。
「なかには、『自分の時間がほしい』っていう理由で
やめてったヤツもいましたからね。
じゃ、いままでやっていたのは
自分の時間じゃなかったのかと、さみしくなって」
というような松尾さんの語ったことが、
ぼくにはずっと気になっていた。

そりゃ悲しいだろうな、そのことはよくわかる。
芝居をするという仕事は、いわゆる労働として、
誰かに売り渡してしまった時間ではないのだ。
自分で選び取った自分の時間そのものが、
芝居に関わる時間のはずなのだ。

ただ、その通りと思った後に、
まだ抱き合わせでついてくる考えが、ぼくには残る。
自分の時間が「芝居をしているその時間そのもの」だと
理解するまでには、けっこう長いか険しいかの道のりが
あるのではないだろうか?

むろん、焼き肉屋での小林薫ちゃんも、
松尾さんと同じ考えをしていたし、ぼくだって、
そのまま、そうだそうだと言いたいのは山々だ。
しかし、そういうふうに考えて言っていられるのは、
ある意味で芝居なり創作なりの
「あらかじめ選りすぐられた集団」で、
現在仕事ができているからなのではあるまいか。

ぼくは、そういう思いを持ってもいるのである。
「自分の時間がほしい」ということばは、
普通の、というより、ほとんどの人にとっては、
とても自然な「やめる理由」になるのだと思う。

しかし、その普通の、というよりほとんどの人の考え方では
『普通の、というよりほとんどの人』と同じことしか
できないのが、次の問題なのであって、
そこに高さのちがいというものがあるのだろう。
優勝したことのないチームの選手は、
競り合いになると力を発揮できないとか言われるのも、
新人の時ほど寝坊や遅刻が多いというのも、
「普通」と「普通以上でありたい」という意識の差がある。
ただし、誰でもが「普通以上でありたい」と思う・・・
わけじゃないのであって、
「そんな険しい道を行くくらいなら普通のままでいいや」
という考え方を否定できるものではない。
人間、何が楽しくて何がラクなのかというのは、
ほんとに人それぞれなんだからね。

だけど、松尾スズキも、座長小林薫も、岩松了も、
いや、糸井重里みたいなものだって、
「普通以上のことやってないと生きていけない」という
強烈な危機意識のようなものがあるから、
チームの全部を、「普通以上」を求める人で固めたいと
考えてしまうのだろうな。

「自分の時間がほしい」というセリフを、ぼく自身が、
若いときに言ったような気がするので、
いつまでも気になってしかたがないのだ。
やっぱり、このところ考え続けている
「休み時間」の徹底研究が必要なのかもしれないなぁ。

2000-05-29-MON

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