ITOI
ダーリンコラム

<断らせる力>


「ほぼ日」スタッフには、
ほんとにゴメンゴメンと思ったのだけれど、
ま、許せや、ってことがあった。

先週の忙しさったらなくってさ、
たまには吐きそうになるくらいフル回転で働いていた。
考えているか、しゃべっているか、
読んでいるか、聞いているか・・・死ぬかと思ったよ。
あ、死ぬかと思ったってのは、ウソです。

そういう最中に、ある雑誌から
取材の依頼があったらしい。
ぼくは、よっぽどこちらがおもしろいと思ったこと以外、
電話取材はやらないことにしている。
「いまから行っていいですか」というような
血相変えたインタビューも、断る。
断らない場合もある。
それは、ぼく自身が決めればいいことだ。
依頼には、諾と否が返事としてあるわけで、
その決定は、依頼される側がするものである。

しかし、長いこと仕事をしているうちには、
そのごく簡単な原則を理解できない人も出てくる。
『イトイは、何やって食ってるんだよ!』というような
素晴らしいセリフを、さる大新聞の方から、
当時のアシスタント君が頂戴したこともあったらしい。
それは、夜の11時くらいに電話取材を断ったのが、
原因だったらしい。

で、先週のケースは、
外出しているとお断りしたら、
『どこに行っているんですか?』となったらしい。
こんな重要な時に、ってことらしいんだけれど、
業績不振な百貨店の経営の問題について、
いま何を訊かれたって、コメントしようもないし、
する気もないし、その女性週刊誌になんの恩義もない。
外出してなくても、会議の連続と原稿書きだったから、
電話を受けたスタッフに
「どうしましょう」と相談されたって、
俺はいない!と言ったに決まっているのだ。

とうとう、
「社員が、連絡つかないなんてことがあるのか」
というようなことになったという。
・・・あるよ。
社員からの連絡を拒否することだって、
ぼくが決めればある。
いけないことか?それは?
しまいには、
「このやりとりをそのまま載せてもいいってことですね」と、
脅迫じみた言い方にまでなったんだってさ。
なんだ?それは?
ぼくは、その記者に、
借金でもしていて逃げているということなのか。
意味がわかんないよ。

ほとんどのメディアの皆さんと、
ぼくは基本的に対等に付き合ってきたつもりだ。
引き受けるときは引き受けるし、
断るときは断る。
それは、相手側にしても、
なにかぼくのほうから依頼があったときに、
同じように対応しているはずである。
普通のことだと思う。

いちど断ったものについては、
なにか断る理由があるわけで、
それをいちいち説明する必要だってない。
『ねるとん』とかのプロポーズだってそうだろう。
「いやだから」とは言えないから、
「ごめんなさい」とか言い方の型式を変えて断ったりする。
それを、それ以上追究しないことが、
次にまた機会があったときに友好的に
コミュニケーションできる条件ではないのだろうか。

気持ちよく『断らせる力』というものが、
あるのではないだろうか。
特に、マスメディアを背景に持って取材するときには、
諾否の決定は相手側にあるのだという原則に、
謙虚に従うことが、とても重要なのではないか。
「いやです」と言われる場合を考えるからこそ、
どうすれば断られないかという考えが必要になる。

自慢にはならないけれど、
「ほぼ日」に原稿を書いてくださいと依頼したときに、
ぼくらは『断られてもかまいません』という覚悟を、
必ず表現しているつもりである。
相手が「なんとなく、やめとくわ」と言ったとしても、
「なんとなくじゃぁ、ナットクできません」なんって
言ったら、原稿のやりとりだけでなく
人間どうしの交流が断ち切れてしまうではないか。
自分の都合を「押し通す力」ばかりが評価されるけれど、
実は、それは「断らせる力」と一対になったものなのだ。

そういうことがわからない男や女を、
この頃はストーカーと呼ぶ。
そういうことがわからないメディアが、
なんと呼ばれているのかは知らないけれど、
「断らせる力」を持っていないという意味で、
「ぼくは好きじゃありません」くらいは言っておこう。

かわいそうだったのは、電話に出た社員たちだった。
「みなさまにていねいに」と、がんばったのにねぇ。
ま、何事も経験ってことでしょう。
温泉で汗といっしょに流せや。

いま、こういうふうに書いていて気が付いた。
「断らせる力」とぼくが名付けたものは、
「自由を認めるという思想」のことではないか?!

2000-06-12-MON

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