ITOI
ダーリンコラム

<けものでもある人間のこと>

原始の時代の人間が、どんなふうに生活していたか、
きっと、ぼくの知らないところで
研究している人がいるんだろうけれど、
ぼくも、ぼくなりによく想像している。

ぼくのイメージでは、
大昔の人間には、
現代よりずっとたくさんの「敵」がいて、
それに反比例するかのように、
ずっと少ない「食べ物」があった。

先日知り合いと食事をしていたら、
いつのまにかダイエットの話になっていて、そこで、
ある人が「コレステロールはうまいんだよ」と言った。
なかなかキレのいいキャッチフレーズだと思った。
彼の説明によると、人類が、
必要なだけのコレステロールを
摂取できるようになったのは、
ここ40年のことだという。
それまでは、いつもコレステロールが不足していた、と。
そういえば、江戸時代の「ハレ」の食事に、
「油炊き込みごはん」というものがあった
という話を聞いたこともあるなぁ。
太古の人たちは、「食える・食えない」ということを、
きっといつも意識していたにちがいない。
ぼくらが釣りをして、たくさんの魚や大きな魚を
釣り上げたときの、格別に誇らしい気分というのは、
そういう原始の時代の「記憶」が、
身体に残っているからではないかと、
ぼくは考えている。

食料についてだけでなく、
「敵」についての記憶も、同じように、
ぼくらの体内に残っているはずだと、ぼくは思う。

どういうふうに安全な場所に住居をかまえても、
クマも、狼も、ライオンも襲いかかってくるだろう。
食料を探すために、山や森に入っていっても、
ライバルである「敵」が、
当時の人間たちと同じ目的で彷徨しているのだろう。
その「敵」と闘うことは、
当然、生活のなかに組み込まれていたはずだ。
どこにどんな敵が潜んでいるか、
鋭敏に察知していれば、危険はすこしでも回避できる。
敵を殴り殺す腕力や、
そのための道具を使う技能が発達していれば、
「敵」はそのまま獲物になり「食料」になるだろう。
さらに、「敵」と闘うことは、
おそらく日常の「精神」のなかに、
当然のように組み込まれていたのだと思う。
それは、現代の日本人の精神のなかに、
入浴や歯磨きといった「保健」が、
セットされているようにである。

草食動物や小動物を、撲殺することや、
鳥の首を締めることや、
敵になるけものの腹に、刃を突き立てることは、
残忍に思えるけれど、
人という動物が生きていくための当然の行為だった。

・・・敵が人間に与える「恐怖」と、
敵を倒すことの「歓喜」とは、
現代に生きるぼくらの脳のなかに、
おそらくまだ記憶として残っているに決まっている。

だが、人間は、長い時間をかけて、
敵になる動物をすべて絶滅させてきてしまった。
生きることを全うするために敵と闘って、
さまざまな経験を積んで得てきた「記憶」を、
ぼくらは、必要としない社会に生活しているのだ。

この時代には、長い間に蓄積されてきた
「恐怖」や、人間自身の「どう猛さ」の記憶を、
どう処理することもできない。
このストレスは、無意識のうちに新たに蓄積され、
わけのわからないフラストレーションになる。
いまあちこちで耳にする
「信じられナーイ!」というような人間の行為は、
生きるためのライバルである敵を失った人間が、
近くにいる「同類」に対して、
記憶のなかの残忍をぶつけている
というもののように、ぼくには思える。

異常だ、残忍だ、というとんでもなく思える事件が、
なんだか目立っているようにも思えるけれど、
それは、加害者が「人間じゃねぇ」からではなく、
「人間」だから、ありうるのではないだろうか。

こういう認識を持っていないと、
ぼくらは、どうしても、
できもしないのに「いいこ」になろうとしすぎて、
もっとイヤな社会をつくりたくなってしまいそうだ。

なんで、今週はこういうことを書いているのだろう。
ま、そういうことを考えちゃったから書く、と、
それだけのことなんだけどさ。

がんばれ、それぞれの人間のけものらしさ。

1999-07-05-MON

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