<プロデュース失敗の例>
前回、自分の若いときの恥ずかしい話を書いた。
書いていて、妙におもしろかったので、
こんどは、別の角度から書いてみることにする。
オレはマゾか? 露出狂か?
いやぁ、そうでもないはずなんだけど、
いつか来る臨終の日までに、
なるべく若い時の借金を返済しておきたい
という気分はあるようだ。
職種がコピーライターということになっているせいで、
なかなかみんなが気付いていないが、
ぼくの仕事にはプロデューサー的な部分が実は多い。
ただし、金銭の扱いの出来ないプロデューサーだけどね。
コトバに関わることをしているという
先入観を持たれているせいか、
たまには「さすがコピーライターですね」なんて言われるが
そういう時には、あまり「さすが」でないことが多い。
プロデューサーという目で見られて、
それをほめられたことは、まったくないなぁ。
ほんとは、そっちの方が「さすが」な事があるんだけどね。
ぼくは、実は、「日曜プロデューサー」なのだ。
日曜画家とか日曜大工のような、プロデューサーだと
考えてください。
自分で、遊びのようにプロデュースをしたことは、
かなりいっぱいあると思う。
本気なことを書くと年寄りの自慢話になっちゃうから、
いかにもっていうような小ネタを紹介します。
木村伊兵衛賞カメラマンでもある三好和義さんが、
まだ、まったく駆け出しの頃に、
あるカメラマンの写真展でぼくに会ったんだって。
名刺の交換をした途端に、ぼくは三好さんに言った。
「この、住所のところの表記。
目高荘ってのは、やめたほうがいいよ。
いっそ書かないか、目高ハイツとかさ、
目高アパートメントとか、
嘘にならない範囲で言いかえた方がいいよ」と、
まじめな顔して助言なんかしたんだそうだ。
それは、憶えてなかったけれど本人から聞いた話だ。
言ったんだと思う。いまでも、そう思っているから。
なぜ、そんなことを言ったのか。
簡単である。
この若い才能のあるカメラマンに仕事を頼んだ人が、
不安になるからである。
彼のことを上役に推薦するときに、推しにくくなるからだ。
「その三好ってのは、けっこう売れてるのか?」と、
上司は訊ねたがるものなのだ。
よその人も「いい」といった、評価の安定した人を、
大人の男は信用したがるものだからだ。
その上司が見るかもしれない名刺に、「荘」は、まずい。
まだ、売れてないと認識されてしまうのである。
また、「荘」にいる金もなさそうなカメラマンには
大金を払う必要はないだろうと、
たいていの場合は勝手に値踏みをしてしまうのである。
だから、「荘」なんて記したら、もう負けなのである。
それを、当時の三好青年は本気で耳に入れた。
そして、名刺を作り直したのだと言う。
その後うまくいくようになったと、本人が教えてくれた。
カメラの腕でないところで、負けてしまうのは、
あまりにもったいない。
だから、ぼくもそう言ったのだと思う。
本気だったから説得力もあったんだろうし、
実にお役に立つ助言だった。
これが、成功例の小さな代表作品だ。
そして、むろん、失敗例もあるのだ。
こっちは、失敗の理由がつかみにくい。
それでも、うすうすはわかるのだが、
結果論にすぎないかもしれない。ま、いいや。
恥かきシリーズ第2弾です。
南伸坊という人とは、
彼が「ガロ」という雑誌の編集者の頃に知り合った。
伸坊がフリーになるというとき、
先にフリーを経験していた友人たちが、
さんざん「プロデュースごっこ」を仕掛けた。
ぼくは真面目に、
「名刺代わりになるから、売れなくてもいいから一冊でも
単行本を出しておいたほうがいい」という意見を言った。
それは実現して『さる業界の人々』という処女作になった。
題名も、ぼくの仕事だ。
この本以後、エロ業界は、よく「さる業界」と表現された。
このへんはよかったわけよ。
篠原勝之(フリーの先輩)は、井の頭公園の便所で、
隣どうしで大便をしながら、
「じっくりとフリーの心得を教えた」のだそうだが、
それも、けっこう、いまさら聞いてみたくなる作品だ。
問題は、そういうことじゃなかった。
ぼくは、伸坊は、本名の「南伸宏」で仕事をしていくべきだと、
かなり強く主張したのだった。
理由は、こうだった。
「伸坊という呼び名の由来もわかっているし、
その名前を気に入っていることも知っている。
ぼく自身も、シンボーと呼んでいるくらいだし、
愛着はある。
しかし、それをペンネームにするのは
本気で職業をやっていない印象をあたえるのではないか。
片手間というか、仕方なしにというか、
ついでに仕事をやっていると考えられがちである。
伸坊と自然に呼ばれるのはそのままでいいから、
正式の名前としての署名は、南伸宏にするべきだ」
この場合、クライアントである伸坊氏は、
同意してくれなかった。
彼は、そんな恣意的なことをしたがる人ではない。
おそらく、そういうふうに言われた、
ということだけを憶えていて、何も変えない。
めんどくさがりで、大人(たいじん)なのだ。
そうして、南伸坊はフリーになり、
南伸坊としてもっと知られるようになり、いまに至る。
「伸坊」という、片手間っぽい名前が、
なんの邪魔にもならなかったのであった。
これは、完全に、プロデューサーとしての、
ぼくの失敗例だと思う。申しわけありませんでした。
三好さんへの話も、南さんへの提案も、
構造は同じだったと思う。
どちらも、
「実力があるのに、関係ないところで損をしてはいけない」
というコンセプトだったようだ。
しかし、提案をすっと受け入れた三好さんもうまく行って、
笑うだけで受け入れなかった伸坊も、ノー問題だった。
こういうコンセプトがぼくから出ているということは、
ぼくが、「世間」というものを三好さんや南さん以上に、
敵視したり、なじめないものとしていたからなんだと思う
どっちの場合も、
「わからずやの世間が、キミを誤解するから」という、
心配性の父や母のような余計なお世話が基軸になっている。
三好和義さんも、南伸坊さんも、
ぼくよりも世間を(いい意味で)甘く見ていたのだ。
そして、伸坊は、
イトイが考えているよりも世間は優しい、ということを、
自然に証明してくれたんだと思う。
亡くなった横山やすしさんは、
新人の漫才コンビに、しょっちゅう怒っていたことがある。
「スーツを着ていない」ということと、
「変わったコンビ名」に反射的に怒りを感じていたようだ。
古くからある慣習や伝統を守っていた方が、
お客様に受け入れられやすいという説教だったんだろう。
しかし、スーツの漫才のほうが珍しいくらいになっているし
横山やすし師匠に叱られたようなコンビ名の人たちが、
いまは主流になっている。
「やっさん」もまた、世間との「なつき方」のヘタな、
ちょいと哀しみまじりのプロデューサーだったんだろう。
ぼくは、いまは、失敗から学んだおかげで、
ずいぶん、そのへん、治っています。
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