ITOI
ダーリンコラム

<勉強するということ>

皆さまのご推察通り、
ぼくは勉強の嫌いな生徒だった。
小学校から中学くらいまでは、できないということもなく、
なんとかごまかしが効いていたけれど、
その後は、もう、からっきしダメだった。

小さい頃に、どうしてなんとかなっていたのかは、
おそらく、だけれど、わかっている。
多少日本語の理解力があったせいなんだと思っている。
どの教科でも、日本で教える授業は日本語で行われている。
わかったかわからなかったかを確認するコトバも、
日本語なのである。
だから、その都度、
授業で先生が言ったことや、
試験の問題について、
何が教えたいのか何を答えるべきなのか理解すれば、
理科でも社会でも、
構造としては似たようなものだったから、
なんとかはできたのだと思う。

その後、どうしてダメになったかというと、
知識が必要になったからだ。
あることを答えるためには、
その前提になる知識が必要になる。
知識というのは、「だいたいそういうことね」と、
わかっただけではダメなのである。
憶えていて、使えるようにならないといけない。
これは、きちんと勉強していないと身に付かない。
ぼくのように勉強の嫌いな生徒は、
憶えておくべき知識を憶えていないから、
「もう手遅れだ」と気がついた時には、
ほんとうに手遅れになっていた。
それでも、「翌日忘れてもいいから」というような
何にもならない付け焼き刃で、
高校にも行ったし、大学にも入ってしまった。
しかし、当然だが、この頃に勉強したことは、
なんにも憶えてはいない。

(その後、「4級船舶」の試験を受けた時に、
この「24時間だけ憶えていればいいや」式の
一夜漬けの勉強をして、
もう一生こんなことはしたくないと再確認したっけ)

社会人になってからも、
ぼくは勉強嫌いだったかというと、
どうもそうとも言えないのだ。

新しい考え方や、自分の知らなかった発見や、
胸のすくようなアイディアに出合うことは、
ほんとうに愉しいことだ。
必要かどうか、試験にでるかでないか、
なんてことに関係なく、
「知るよろこび」や「考える愉しみ」を、
自由に遊べることが、大人になってからのぼくは、
ちっとも嫌いじゃなくなっていた。
つまり、好きでする勉強は、遊びだったんですね。
だから、嫌いじゃなくなっていたんでしょう。

ただし、これは人にあきれられるほどの大欠点なのだが、
ぼくには記憶力というものが、ほとんどないらしい。
だから、知識の総量は、勉強嫌いの学生時代から
ほとんど増えていないように思う。
「だいたいこういうこと」とか、
「ざっとそういうこと」という以上に、説明もできない。
知るときの「おおっ」というような驚き、
考えるときの「遠くに見える答えのともしび」の眩しさ、
教えてもらったときの「サンキュウ!」な気持ち。
こういうものは、記憶力のないぼくでも、
ちゃんと味わえるものなのだ。

ただし、これ、ひとりで続けているのは
やっぱり限度がある。
おなじような興味を持っているともだちがいるというのが、
とても大事なことのように思うのだ。
インターネットの「新聞」なんかを、
毎日出しているぼくらと、読んでいる人たちは、
顔をあわせてはいないけれど、
そういうともだち関係を求めあっているのではないかと、
ふと思いついたのです。

今週もとりとめなくてスミマセンでした。

1999-08-23-MON

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