ダーリンコラム |
<テレビをみていた> どういうわけなんだか、土曜日の夜には 決まって「ブロードキャスター」というTBSの番組をみる。 好きだとかひいきだというわけでもないのだが、 毎週のようにみているということは、 どこかおもしろがっているのだと思う。 野球中継が終わって、次はどのチャンネルにしようか というときに、必ずこれにしているのだから。 先週は、「夜もヒッパレ」が裏にあったので、 2画面にしてヒッパレにポカスカジャンがでるのを待った。 あっ、そのときも主画面は「ブロードキャスター」だった。 なんでなんだろうなぁ、軽さがいいのかなぁ。 これは、我が家における謎のひとつなのだ。 ぼくが忘れていても、意外と、カミさんがこれを見る。 前回も、仕事をしながらみていた。 村上龍が出版した絵本の話題があった。 ちゃんと調べないままで悪いけれど、 「あの金でなにが買えたか」というような題の本だ。 公的資金として話題になった超大金の、 リアリティのある表現を追求したものだ。 「あんな無駄な金を、こうやって使えば、 こんなにいろいろ出来たんだぜ、いいことが」というような コンセプトの絵本らしい。 そうだよなぁ、あれだけ大きいお金って、 「いっぱーい! いっぱーい!」というくらいで、 どれだけのものかわからないもんなぁ。 いいとこ突いてるなぁ、と感心してみていた。 そのうち、感心しきれない気持ちになったので、 なんでだろう、と思いながらみつづけた。 やがて、わかった。 例えば、銀行に無駄に投入したお金で、 こんな建物がこれだけ建設できるとか、 図書館の本がこれだけ増やせるだとかは、よくわかる。 しかし、NYヤンキースが買えるだとか、 ロナウドが買えるだとか、 映画「タイタニック」が何本つくれるだとかについて、 ちょっと、「そりゃないない」と思ったのだ。 絵本のなかにそういう表現があったのか、 テレビ局が番組用に考えたのかは知らないけれど、 「買えないもの」を金で買えるかのように例にだすのは、 ちょっとちがうんでないかい、と感じたのだ。 相手(作り手・売り手・本人)が、 売ることを断ることができるものは、 「買える」と言ってはいけないのではないだろうか? ロナウドもヤンキースも、相手が断ると思うのだ。 金をたくさん積めば断らないだろうと考えるのは、 あまり健康な人間の考え方とは言えない。 そういう言い方でわかりにくい場合は、 こんなふうに言い換えてもいい。 『これだけの金があれば、この女とヤレル』 この女として具体的な名前を出したら露骨にわかるだろう。 「エリザベス××××」が幾ら幾らである、と。 「タイタニック」という超大作ハリウッド型映画だって、 (いくら多くのビジネスマンたちがビジネス戦略を立てて 作った映画だからといって)、 作り手は監督だって俳優だって他のスタッフたちだって、 気持ちを込めて作らなかったら、 あれだけの作品にはならなかったはずだ。 同じ金額の予算を差し出しても、 同じ水準のものになるわけがないのだ。 こういう発想の源には、 誰にでも定価で売ってくれるのが当たり前だと 思っているような、 とても「日本のバブル」的な気分があるような気がする。 日本の電気製品会社が映画会社を買ったときの、 あの大きな反発も、やっぱり、 「金でなんでも買えると思ったら大間違いだよ」という メッセージのように思える。 「この家売りません」とかの看板だして ビルの隙間に住んでいる職人の親父みたいな人も、 そういう気持ちがあるのかもしれない。 世の中には、買えるものと買えないものがある。 それを感じている人には、 あんな例の出し方はできないだろう。 そこで、待てよ、と思いついた。 この番組だけが、ぼくにそういうことを考えさせる しくみを持っているんだ! いつも、この番組をみては、 何かしらの文句を言ったり、考えたりしているのだ。 しかし、そうだとしたら、 そのしくみって、なんなのだろう??? 番組制作者は、それを意識的にわかっているのか? 特別に視聴率がいいという話も聞かないし、 あの番組には嫉妬するねぇ、という声もないけれど、 「ブロードキャスター」っていう番組は、 なんだか、何かをつかんでいるという気がする。 なんだかわかりたいものだ。 |
1999-09-20-MON
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