ダーリンコラム |
<読点を探す岩松了> (熱も下がったので書き間違いの部分などをなおしました。 ほとんど同じだけど、ましになったかな=darling) カグチヒナコさんが、樋口可南子になって出演している 舞台『かもめ』を観てきた。 演劇に詳しいわけでもないぼくは、 『かもめ』というロシアの演劇があって、 それがチェーホフという作家の手になる 当時の実験的な作品である ということくらいしか知らなかった。 チェーホフがこの舞台を初演したときにも、 当時の演劇評論家や観客たちに酷評されたというが、 それが、なぜ、日本で「新劇の古典」として 迎え入れられているのか、ぼくにはわからなかったけれど、 そんなことを理解してから出かけるような勉強家じゃない。 日本人にしか語れないような台詞を書き続けている 劇作家の岩松了が、 いくら昔から大好きだからといって、 「赤毛もの」を、いまやりたいという気持ち についてのほうが、興味があった。 だいたい、逆に考えてもみたまえ。 岩松作品の独特の日本語タイトルを並べてみよう。 「蒲団と達磨」 「鳩を飼う姉妹」 「傘とサンダル」 これは、作者がこの気分をわかる人を選別するような、 短い日本語の詩である。 いじわるなくらいに日本語のわかる人間のために書かれた 彼の脚本は、「閉じきったラジカル」とでもいうような おもしろさがあった。 密封された空間は、少量の火薬でも大爆発を起こす。 その爆発が、目の前で起こるのか起こらないのか、 はらはらしながら見物しているのが、 岩松作品を観劇する時のスリリングなおたのしみだったし、 その演劇構造は、そのまま現在の 日本の組織や家族の 「閉じすぎた恐怖」にアナロジーできるものだ。 閉じた空間に半端な穴を開けないのが、 岩松了の思想性であるのだろうし、 性癖のようなものでもあるのだろうと、ぼくは思っていた。 そういう作家が、外国の作家の過去の作品を、 「彼にしてはオーソドックスにやる」ということは、 なにを意味しているのだろうか。 密閉することによって、小さなエネルギーを 大きく爆発させる作家が、 ロシアという「外」をどう扱うのだろう。 さらには、岩松了のような作家の目を、 他の人々とはちがったかたちであるにせよ 「外」に向けさせてしまう <現在>という時代のパワーについても、 驚かざるを得ない。 やっぱり、いまは、特別な意味を持つ過渡期なのだ。 この国が第二の敗戦を迎えたとも言われる<現在>こそが、 「外」と「内」との潮目が見える時代なのだ。 さてさて、そういうような気分で、興味を持って出かけた 『かもめ』だったけれど、やっぱり、 ぼくには刺激的でおもしろかったなぁ。 よく、翻訳するという仕事を、 「横のものを、縦にする」と表現する。 左から右に、横書きされた外国の言葉を、 上から下に書かれる日本の言葉になおすということだ。 しかし、誰でも知っているように、 横を縦にするだけでは、 こぼれおちてしまうイメージがある。 極言すれば、ロシア語で、「ちゃいか」というんだっけの 「かもめ」という言葉だけだって、 ぼくらの感じる「かもめ」という言葉とは 伝えられる意味もイメージもちょっとちがうはずだ。 そんなことは、誰だってわかっているのだろうが、 「蒲団と達磨」の作家が、 あえてロシアの脚本を日本で上演するときには、 「誰だってわかっている」以上の、 とんでもない飛躍が必要となることは言うまでもない。 「どうも」という日本語の台詞の使い方に 命をかけてきたような岩松了だぜい。 「どうも」を外国の言葉に翻訳することが、 どれほど困難であり、どれほど不可能であるかを 知りぬいている人間が、「昔の外人」の書いた世界を、 そのまま翻訳・脚色・演出するはずがないではないか。 「どうも」を主食にして生きているぼくらの世界で、 チェーホフの『かもめ』を、どう見せるのかについての、 岩松了の「独自の発見」がなければ、 ぼくらは岩松了作品としての『かもめ』に なーんだ、という不満を持つにちがいなかった。 骨格をなすテーマの部分は、他の批評家にまかせよう。 「人間ってやつは・・・」とでも書いておけば、 あらゆる演劇評は書けるものだし、 テーマなんて、どうだっていいとさえ、ぼくは思う。 ぼくらが、なぜ、岩松了の『かもめ』を、 いままでの岩松了作品を味わうようにたのしめたか? それが、ぼくには一等大事にしたい すてきな気がかりだった。 ああ、これからタイピングする、ほんの数行のために、 ぼくは長い助走を続けてきていたのだ。 岩松了は、横のものを、自分の縦にするために、 「読点(、)」を、チェーホフの脚本のなかに 発見し続ける作業をしてきたのだ。 これこそが、岩松了らしい「飛躍」の仕方だったのだ。 ぼくは、そう考える。 読点は、明治以降に、近代日本人が発見した記号だ。 「(笑)かっこわらい」よりも、 むろん「 (^_^;)」などよりも ずっと早くに、発明された記号なのである。 それまでの日本語の文章には、読点も、 句点さえも存在していなかった。 そして、英語にもロシア語にも、読点はない。 おおざっぱに言えば、それは、 文章に「時間」の表現を導入したものだろうし、 声に出して人間が読む可能性を考慮した表現技法だ。 読み手の都合ばかりでなく、書き手の呼吸が、 どのようにその文章のなかに込められているのかを 表現するための「楽譜」のような役割をしている。 「息・呼吸」や、「間・時間」が、言語として 辞書に掲載できない重要なコミュニケーションであること。 それは、役者の肉体という自然を利用しながら 「蒲団と達磨」のような民族的感覚を繊細にくすぐる 演劇をやってきた岩松了にとって、 もっとも重要な武器だったはずだ。 その武器を、「わりとオーソドックスに」縦にした チェーホフの『かもめ』のなかに、紛れ込ませたのだ。 ぼくは『岩松のかもめ』を見終えて、 フランス料理を、懐石の方法で演出し、 時間のコントロールを発明したものが、 「ヌーベル キュイジーヌ」として 本国で普遍化されていったことを、想起する。 中国の麺料理を、味噌汁のだしになる煮干しや、 吸い物のうま味をつくる昆布や鰹節を利用して、 ラーメンに作りあげていった無名の料理人たちを、 思い出してしまう。 左官の技術を取り入れながら西洋建築を生み出した、 明治から昭和までの日本の建築家たち職人たちを、 考えてしまうのだ。 おなじように、岩松了は、 ロシアの『かもめ』に、読点を加えて、 間の恐怖と快感を味わわせる、 彼のいつもの「気持ちの過密と圧縮」による 爆発のスリルを表現することに成功した。 前作『水の戯れ』は、拳銃の音で密室を爆発させた。 今回の『かもめ』は、日本より広いロシアが舞台なので、 やや遠く見えない距離の場所で、 やはり拳銃からの破裂音とともに、 圧縮されすぎて行き場を失った「思いども」が、 吹き出して、舞台の終わりが宣言される。 岩松了は、彼がもともと追求してきた、 日本人の「呼吸」「ま」を、 ロシアの古典的実験作を日本で上演するときに、 「だし」のように加えていったのだろう。 ロシア語で表された戯曲のなかに、 その「読点」の入り込む隙間を発見し続けることが、 彼の脚本家としての大仕事だったろうし、 その「読点」を、岩松個人の肉体の呼吸に合わせて、 役者たちの肉体を使って、 象眼細工のように舞台を飾らせるのが、 演出家・岩松了のもうひとつの仕事だった。 こりゃあ、稽古がしつこくなるに決まってるわ。 岩松了個人のフェティッシュとも言える 呼吸のコピーが、役者たち全員の肉体がおぼえこむまで、 繰り返さなければ、 読点を表現する理由がなくなっちゃうんだもん。 「密閉」を追い続けてきた岩松了が、 おおきなロシア大陸のチェーホフまでも 「密封」したくなるような<現在>ってやつのうねりを、 ぼくは、この芝居の「超主役」だと考えてみた。 これくらいで疲れたから寝ます。 岩松さん、お疲れさまでした。 十二分にたのしめましたよ。 あなたがチェーホフの脚本に、星くずのようにちりばめた あなたの読点は、誰の目にも見えないけれど、 からだにじかに感じられる光でした。 おだてに弱い樋口さんのことをほめてる余裕が なくなっちまいましたが、 ベースギターと三味線を両方弾いているような、 とってもお得な役でした。 こりゃあ、ますます舞台がやめられなくなるでしょう。 彼女以上に芝居好きかもしれないぼくとしては、 しょうがねぇなぁって気持ちと、 うらやましい気持ちとが、おなじくらいあります。 |
1999-10-25-MON
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