ITOI
ダーリンコラム

<クリエイティブの運命>

(熱あるし、またあわただしく書いたから、
乱文誤字など、許してくれい)

若いときは、「クリエイティブ」という言葉を避けていた。
聞きかじりの
『クリエイトってのは、創造という意味で、
クリエイターといえば、創造主ってことだ。
ぼくはクリエイターですってことは、
ぼくは神様ですって言ってるのとおなじことなんだ』
という理屈を、そのまま頭に入れて、
その「危険なことば」をタブーにしていた。
まぁ、たしかに12時前の時間帯で、
「クリエイターの諸君をお招きしたわけだけれども」
なんて司会者に紹介されて、
ちょっと斜にかまえて「あ、どうも」なんて図は、
恥ずかしいとは思うけれど、
だからといってそのことばを使わないってのも、
大人っぽくないと考えるようになった。
いつまでもそのエリアにいると、
愛も人生も情熱も感動も努力も夢も勝利も、
熱が高くて肯定的なエネルギーのことばは、
だんだん、ぜんぶ「他人のもの」になってしまう。
かわりに引き受けさせられるのは、
暗さや悲しみや不幸や悔しさや嫉妬や死や病だったりする。
ちょうど、
「君はなぜ、いつも黒い服しか着ないの」
「ある人を失ったから。
これは、わたしが死ぬまで脱げない喪服の色なの」
なーんて女性がよくいるじゃないですか、ドラマに。
それはそれで陳腐な模倣だってことに気づかずに、
そんなふうに言葉の喪服を着ることに
こだわっている人間に、
ぼくは、あんまりなりたいとは思わなかった。
こだわりってのは、フェティシズムのことだろ。

(熱があって機嫌がわるいので、強いね、表現が)

えーっと、いま、夜中なんだけれど、
一読者に怒りのメールなんか返信したり、
松尾スズキさん宛によっぱらいのようなメールを出したり、
間が空いてしまったので、わかんなくなっちゃった。
熱があがってきた。明日は休むことに決めた。
これ書いた後で、今日の仕事をお休みするって連絡しよう。
すみません。こんなことじゃ、人に会う仕事はできない。

で、クリエイティブだ。
このごろは、いままでの反動のように
クリエイティブということばを使っている。
別に、ハードに対しての「ソフト」とか、
「表現活動」とかいうことばでもいいのだろうが、
ソフトってことばが、
全然「ソフト」を意味しなくなってきているので、
これはこれで使いにくくなっちゃっているのだ。
やっぱり、クリエイティブってことばが、いまじゃ好きだ。
先日も、TCC(東京コピーライターズクラブ)の総会で、
パーティーの乾杯を頼まれて、
「TCCの、なんてけちなことを言わずに、
クリエイティブの未来に乾杯」なんて言ってみました。

そもそも、クリエイティブっていうやつは、
ぼくの浅い知識でざくっと言えば、
社会の「おこぼれ」で食ってきたわけだ。
ざくっとしてるなぁ、われながら。
任天堂の山内社長の発言を借りれば、
◆「われわれは、不要不急の商品を
つくっておるのであります」
さっきメールを出した松尾スズキさんの
本のタイトルでいえば、
◆「第三の役立たず」
として生きてきたわけである。

歴史上の画家や音楽家やなんかも、
王室やら貴族やら金持ちやらのパトロンがいて、
そのおかげで活動ができてきたらしい。
一見ポップな活動をしている現代美術の世界でも、
画商のつかない絵描きは食っていくことはできないという。
近代以降も、その構造は変わっていないわけで、
とにかく「要らないはずだけど、欲しがられる」もの
として、音楽も文学も絵画もあるのだ。

変わったのは、パトロンの姿だけである。
ひとりの金持ちや殿様や、財閥というよりは、
企業やメディアがパトロンの代役をしたり、
販売と集金の方法が変化してきたせいで、
おおぜいに普通の人が集合して「集団パトロン」を
するようになってきたということだ。
三波春夫さんの「お客さまは神様です」という
歴史的なスローガンは、
パトロンが小さく広く散っていって、
小銭を集めれば大金になるという
新時代の芸能の構造をほんとにうまいこと言い表している。

ある意味では、それはいいことだった。
みんなが「役には立たないすてきな何か」を、
小銭で手に入れることができるんだから。
早い話が、昔の人がオーケストラの音楽を
聴ける機会なんて、そう簡単には得られなかったでしょう。
レコードになったから、それと似たものが、
小金持ちには手に入れられるようになったし、
その(情報量的な)進歩は、CDになりMDなり
DVDになりMP3になりという具合に、
よりパトロンによろこばれる品質になり、
しかも・・・安くなっていくのだ。

しかし、同時に、パトロンが無数に増えたことは、
「口を出す財布」も限りなく増えたということでもある。
財布をもった変態もいれば、口だけ出す人間も混じる。
しかも、「要らないけど欲しいもの」の市場も、
パトロンの数にあわせて拡大するから、
小口のパトロン集団用の「芸」も増えていく。
すぐに効率のいい商いをしたい人たちなら、
なるべく大勢のパトロン集団のいる場所を調べて、
そこで喜ばれる「不要不急のもの」を作るようになる。
それは、マーケティングというものだ。
「必要なもの」の市場を調べるために考えられた
マーケティングという技術は、
「役立たずの世界」にも通用することがわかったのだ。

ぜんぶ、必然だったと思う。
なるべくして、そうなったのだと、ぼくは思う。
昔はよかったと、百万べん叫んでも、
何も変わりゃあしないんだし、
ひとりのパトロンに気に入られるための競争よりも、
いまのかたちのほうが、ある意味では、
敗者復活のチャンスも、新人デビューの可能性も、
ずっと多いのだから、これはこれでよいところがある。

しかし、問題は、「不要不急なもの」の、
「第三の役立たず」がつくるもの、の、
値段が少しも高くならないばかりか、
どんどん叩き売りのように安くなっているという
「おろろっ?!」な現実である。

自分の商売の領域で考えるとわかりやすいが、
いままでの広告の制作費というものは、
ほんのわずかしか企業から認められていなかった。
しかし、広告の媒体を商いする代理店が、
見えない不動産のように「媒体という土地」を売って、
その利益の一部分を、「クリエイティブ」と呼ばれる
制作部門の経費に回していたのである。
これからは、しかし、媒体の増加とともに、
それぞれのメディアの安売りがはじまるだろうから、
クリエイティブに「おこぼれ」を回すことなど、
出来にくくなってくるに決まっている。
これも、当然の成り行きだと思う。
いままでの構造が、ある種奇跡的に成り立っていた
だけなのだという気さえする。
いまごろ「コピーライターになりたいんですけど」
なんて言っている青年は、
時代認識が寝ぼけているゆえに、
コピーライターにも何にもなるのは無理だろう。
善人であるか文才があるかということとは別だけど、
いまがどういう時代かについて、
考えてないのだとしたら、かなり致命的な欠陥だ。
考えていて、そのうえであえて、ということなら、
「コピーライター」という職業名を、
あえて拒否したほうが得だという気もするけどね。

作家にしたら、もっとわかりやすい。
いまの出版界では、一万部売れる本というのは、
ヒットだと聞いている。
1500円の一万部で、総売上が1500万だ。
紙も印刷も、書店の利益も、運送費も、編集費も、
なにからなにまで入れて、1500万だ。
著者には基本的に150万円入ることになっている。
その著者が1年に一冊しか出版できないとすれば、
月給20万の会社員を、経済的には下回る。
「駄本、くず本が多いのだからしかたない」
という意見もあるのだろうが、
純文学の大作家だって、数千部の売れ行きなんて、
ざらなのだから、そういう批判も聞き難い。
売れ続けるためには、売るための方法を、
考えなければならなくなる。
きっついよなー。
なんで、昔の作家とかって家が建っていたり、
別荘が建っていたりしたのだろうと、不思議なくらいだ。
ほんとは、不思議でもないんだけどね。

ふー、長いじょー。
熱があるとか言いながらやめられなくなってきた。
明日病欠するってメール出したから、
もう、ここで倒れたっていいんだもんっ。はーと。

やっと、ここで、動機の部分に入れる。
ここまで書いてきたようなことは、
これから書くことを書きたいと思って書き出した
ただの「前フリ」だったのです。
だって、こんなことは、みんな知っていることだし、
ぼくみたいな「あほ系軽はずみ派」の人間から
言われたって仕方のない教科書みたいなことだもん。
ほんとは、もっと悪意のある書き方とか、
たまにはしてみようかとも思ったのだが、
だめだった。かえって、めんどくさい。

これから先、クリエイティブというものの価値は、
必要とされることや、情報・サービス業の人口の増加に
反比例して、どんどん下がっていくと、
まぁ、ぼくは危惧しているわけだった。
これも、そりゃそうだ、である。
供給人口が増えれば、値段は下がる。
なんだか切ない逆ユートピアだけど、
あらゆるソフトが無料になって、
誰でもが垂れ流しのようにソフトをつくっていうような、
虚しいデモクラシーが世界を覆うことも、
想像できなくはない。
インターネットのある側面というのは、
既に、その様相を呈しているともいえる。
あ、うちは「ほぼ日」はちがうと言いたい。
スーパー・ダンピングはしているけれど、
しつこく言うが、ビジネスとして成り立たせるところを、
ちゃんと見せることを目的にしているつもりだからね。
まだ、弱いだけだっつーの。
(ほんとは、ここに、流行の「ブランド価値論」が
挿入されるんですけれどね。
試合は、もっと複雑なんだよな。でも、省略)

あらゆるクリエイティブが、食えなくなるんじゃないか。
そういう逆希望を心に抱きつつ、じたばたしている
ぼくが、興味を持つことというのは、
「クリエイティブは食える」という可能性を、
見せてくれる人々の活躍なのである。
ぼくが勝手に「起業家ラーメン群」と呼んでいる、
最近の「考えるラーメン屋」の活躍は、
ぼくにとっての未来への希望のひとつだった。
だから、『武蔵』に通い続けている
というわけでもないんだけれど、
ちょっと以上にその要素はあるな。

ああ、やっとたどりついたよ。
演劇という「職場」にものすごい興味を
持ちはじめたんですよ。
それは、いくつかの興味の支流が、ちょろちょろと
すでに流れていて、合流したということなんだと思う。

まずは、昔の知り合いの長谷部浩さんに会って、
ひさびさに芝居を観る機会ができたこと。
そして、最初に観に行った舞台が
野田秀樹の「Right Eye」だったことだ。
観客としてとぎれていた「芝居見物」が、
これで、また始まった。
理由は簡単で、おもしろかったからに決まってる。
そして、そのおもしろさの素になっていたのは、
野田秀樹が、捨て身(というような自棄じゃないけれど)
に見えるほど、芝居に自分の全体を賭けているのが、
新鮮な驚きであったし、
それがぼくの胸に響いたからではあった。
野田くん、どうしてこんなに本気になっているんだ?!
いいじゃないか?!
というような感じだった。

もうひとつは、家にいる職業・女優という人が、
「永遠のアマチュア」とかぼくに言われながら、
あんまり仕事をしない人だったのに、
急に竹中直人さんに誘われて、
岩松了さんの舞台に出演することになったことだ。
「やりたいことなら死んでもやるけど、
やりなくないことはほんとにやりたくない」
という樋口可南子という人の姿勢は、
真剣なアマチュアである。
ほんとは、そんなことを言っていたのでは、
めしが食えねぇんだよ、と叱る人もいそうだけれど、
それで済んできたのだったら、それはそれで生き方だ。
そういう人が、岩松さんの、評判のくどい演出の舞台に、
よろよろしながら出かけて行くのは、おもしろかった。
集中力しかない人間、とぼくが悪口を言っているくらいの
不器用な女優が、いままでにない真剣さで
稽古に通っているのは、興味深かった。
「おもしろいから」っていうじゃないの。
失礼でもないと思うからあえて言うけれど、
具体的には知らないけれど、
それだけ真剣にある意味では命を削るようにして
出演した彼女の報酬は、
きっと簡単につくったテレビドラマの出演料
以下なのではないだろうか。
でも、やりたくてやっているのだから、
それでいいのだ。
たぶん、ぼくでも同じ選択をするだろう。
だって、そういうことがやりたくて
この職業を選んだはずなのだし、
その思いを思い出させてくれた場所が見つかっただけでも、
ありがたいことじゃないか。
ただ、芝居っておもしろそうだよなぁと、
ぼくが考えてもっと知りたいという気持ちはあったが、
この芝居の内側の様子は見られなかった。
樋口さんは、「夕鶴」の鶴みたいな性格らしく、
機を織る姿は、ぼくには絶対見せないのだ。
そういうやつなんだから、
これはこれでしょうがない。
おかげで、ぼくのほうも、妙な口を出されないのだし。
生活の場面と、表現の場面は、
ごっちゃにしないほうがいいということは、
たしかにほんとにあるのだ。

まだ、支流はある。
テレビ局で会う人たちの話を聞いたり、
劇場の案内広告などを見ていると、
いままでいわゆる売れっ子と呼ばれていたような人たちが、
「舞台に出たがっている」という雰囲気が、
いままで以上にあるのだ。
年を取っていってからの芸能という職業の
延命策としてではなく、
「やりがい」のある場を、求めている。
それを強く感じるようになってきていた。
「テレビが、視聴率ばっかりでつまんないもんね」
「出たいと思える番組がないんだよ」
「映画も、なんだか、誰に撮ってほしいとかないしなぁ」
と、生意気に聞こえるかもしれないけれど、
そうじゃない。
みんな真剣に、「自分は何がやりたかったんだっけ?」と、
考えざるを得なくなってきているのだ。
ぼくには、そういうふうに受け取れた。

ああくたびれた。

読むほうも疲れたと思うので、
つづきは、また来週にさせてもらおう。
ほんとのほんとは、ここから書き出すつもりだったのだ。

演劇というクリエイティブの、生き延びる可能性は、
他の表現に比べて高いのではないかと、
あらためて思いはじめたのが、
『パンドラの鐘』の野田秀樹の稽古場に行ってからだ。

(寝ましゅう。続きは今週中に書けるかもしれない)


1999-11-01-MON

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