ITOI
ダーリンコラム

<野田秀樹の稽古場で興奮>

<クリエイティブの運命>の続きです。
(前回の続きなので、もし前のぶんを読んでなかったら、
そっちから先に読んだ方がいいかもしれない。
しかし、自分で前回のを読み返したら、
読まなくってもいいかもしれない、とも思った。
また、今回も、推敲なしの書きっぱなしですから、
そのへんについてはあきらめてくださいね。
インターネットならではの甘えでしょうか。許せ。
そうだ、ぼくと雑談してると思えばいいんだ)

野田秀樹さんの稽古を見学して、
ぼくはとても興奮してしまったということから、
おはなしは始まるのだった。

野田くんの稽古風景を、まったく見たことがない
というわけではなかった。
NHKの仕事をしている時に、別の部屋で稽古をやっていて、
そこにちょっと訪ねたことはあった。
しかし、その時には、ぼくは「やぁ」というくらいの
挨拶をしたら、そのあとは「へーえ」と思って、
それっきりだったと思う。

家のなかに芝居の稽古に出かけていく人がいるのだから、
一度くらいはその場を見学しているのだろうと
思われるかもしれないが、
それはなんだか「しないこと」が不文律になっている。

だから、考えてみたら、ぼくは野田秀樹の稽古場以外は、
まったく見たことがないということだな。

もともと、ぼくは「メイキングもの」が好きだ。
もちろん、結果として商品になったり
作品になったりしているものを楽しむのが
本筋なのだとは思うけれど、
つくる立場の視線を共有するよろこびってやつは、
完成品を、受け手側に立って鑑賞する以上の刺激がある。
それに、受け手として劇場で映画を観ている時だって、
自然に「これをこう創っているのかぁ!」とか、
受け手の予定された領域を越えたところに
感動があったりすることが多い。

ぼくが、ここに出かけていったのは、
ほとんど偶然のようなもので、
パンフレットに掲載する野田くんとの対談が目的だった。
約束の時刻がもしかしたら稽古中だったら、
ぜひごらんくださいませ、みたいなことで、
それはそれで「けっこう興味あるなぁ」というくらいの
軽い気持だったのかもしれない。

ところが、これがおもしろいのだ。
そこで芝居の稽古が行われているということは、
役者たちのセリフや動きは、
すべて表現として意図されたものだということだ。
むろん、稽古中なのだから、それぞれの役者やスタッフの、
意図しない動きやら発声やらも混じっているはずだ。
ぼくは、よく、新人のひとたちに言うのだけれど、
「映画でもCMでも、同じなんだけれど、
みかんの皮がそこに落ちている画面があったら、
それは、誰かがそこに置いたものか、
あるいは、そこにあることを許したものなんだ。
そのどちらでもない場合は、
ほとんどあり得ないと思った方がいい」
ま、ずいぶんこれも常識的なことなんだけれど、
それは、ものをつくる時の基本的な考えなのだ。
あ、ぼくのつくるものの場合ですか?
それは、「許すことが過剰」という技法なんですヨ。

稽古の途中の段階では、役者たちは、
決められた演技をどう表現していいか決定しかねたまま
自分の判断で、とりあえず表現してみる。
他の出演者の演技によって稽古中に微調整されたり、
肉体の個性によっては、
「こうしたほうが良いのだろうが、こう逃げるしかない」
と考えざるを得ない演技を試す場合もあるだろうし、
苦し紛れの逃げ方が「期待される個性」として、
演出家の意図に組み込まれている場合もある。
なかには、演出家はこうやらせたいのだろうけれど、
自分としては別の演技をしたほうがよいと考えるなどという
いい意味で「戦いの姿勢」で演技している役者だって、
きっといるのだろう。

こんどの『パンドラの鐘』には、
他の劇団で演出をしたり看板俳優をしている
古田新太さんやら、
松尾スズキさんやら、銀粉蝶さんやらが、
役者として参加している。
この人たちは、おそらく、
ここは野田秀樹の場所だから、彼の演出にゆだねようと、
決めて演技をしているのだろうが、
そうは言っても演出家・野田秀樹が受け入れるような
提案が見つかったら、きっと
それをひょいと混ぜ込むにちがいない。
他の役者さんたちにしたって、似たようなものだ。
見渡せば、いやんなっちゃうくらいに経験豊富なメンバーが
八百屋の店頭のように無造作に出入りしている。
自分の仮縫いなしには、ひと声だって出やしないのだから、
それぞれの役者は、どこかである思考停止を決断して
この稽古場に集まっているわけだ。
おそろしいくらいだ。

この状況を、ぼくらの本職の仕事に、
置き換えてみたらどうだろう?
(さぁ、読者のみなさまもご一緒に!)

集まったメンバーのひとりひとりが、
このプロジェクトを成功させたいという動機を持っていて、
自分の役割に責任を持っていて、
キャリアがあるぶんだけ、
リーダーに向けての提案をできる可能性があって、
しかも、設計図どおりじゃ「ふくらみがない」ことを
全員が知っているので「偶然の神」の降りてくる場所を
いつでも空けて待っているような集団が、
目の前にあったら、
「いまさら仲間に入れない無念さ」に、
泣きたくなっちゃうと思わないかい。

野田くんの役割というのが、これまた想像以上に
スリリングなんだ。
脚本という設計図を書いたのは自分なのだけれど、
舞台をつくっていく裏にまわっているスタッフや、
それぞれの役者たちの「肉体」という自然や、
彼らの「個性」という歴史が、
設計図に思いがけない色彩をぶちまけたり、
ねじれさせたりさせるのを期待しながら
「なにか」が完成するのを監督していくわけだ。

稽古の最中や、稽古の終了後のミーティングで、
野田くんがやっていることは、
相手に「理解される」ことを前提にした
コミュニケーションだ。
わかるように伝える技術があるのか、
わかるに決まっているチームをキャスティングしたのか、
わかるまでくりかえしているのか、
ぼくには見当がつかないのだけれど、
いわゆるビジネス用語でいう
「情報の共有化」なんていう課題を、
簡単に実現しているように見えてしまう。
特に驚いてしまうのは、
ある一人に向かって野田くんが伝えようとしていることを、
他のすべてのメンバーが、いっしょに考えているらしい
という現実だった。

これが、プロ野球チームのように、
企業組織のように、何年かの時間を共有してきた
なじみのあるメンバー同士なのだったら、
「いいチームだな」で済んでしまうのかもしれないが、
ごぞんじのように、『野田MAP』というのは、
いつでも演目に合わせて臨時に組織される、
不定形のプロジェクトチームなのである。
「おいら。」の天海さんなんか、
この現場からあんまん買って帰って、
風呂で「ううぅー」みたいな「ぐぅーえぇー」みたいな
声出して2ヶ月とか生きているんだよなぁ。
苦しいかもしれないけれど、うらやましいよ。
アクションは得意科目の堤真一さんが
肉離れを起こしたとか起こさないとかという噂も聞いたが、
稽古が過酷なのは間違いない。

なんでこんなことができるんだよーっ!?

最強のプロスポーツチームにうっとりするように、
大好きな映画「アポロ13」を現実に見つけたかのように、
ぼくは、わくわくしてしまったのだ。
ぼくが世間知らずなだけで、
「映画でも演劇でも、たいていはそんな感じですよ」
なんてことを教えてくれる人もいそうだけれど、
そんなことはどうでもいい。
ぼくは、目の前で、
「クリエイティブ」がダイナミックに動いているところを
見せられてしまった。

誰ひとり義務でやっていない。
すべての人が、責任を知っている。
すべてが予定通りにことが運ぶ、ことを望んでいない。
そして、
不要不急の、消えてしまうものをつくっている。
作る側の状況としては、理想的なのだ。

この理想的に見えるクリエイティブの現場は、
芝居というものの魔力が宗教的に働いて
実現していることなのかもしれないし、
野田秀樹という「身軽なカリスマくん」の
磁力によるものなのかもしれない。
ぼくや、読者のみなさんが、
うらやましがってもどうにもならないような
とても特殊な例を見ていただけなのかもしれないけれど、
超人気のアイドルが東京ドームを満員にすることを
うらやんでもしかたがないと思うこととは、
ちょっとわけがちがうと思うのだ。

この野田くんの稽古場に集っている「欲望」が、
ぼくがよく冗談でいうような、
「金のしゃちほこのついた御殿」や、
「ポルシェにベンツに巨乳のガールフレンド」
というようないままでの価値観のヒエラルキーに
つながるものでなくて、
「この現場そのものがインセンティブ(ご褒美)」
というかたちをしているように見えるのだ。
訳知りぶった、しかも青臭い言い方で、
金じゃない理由で人間は一所懸命になれるんだよ、とか、
つい言いたくなっちゃうような世界が、
ほんとにあるんだってば、と、
誰にともなくお伝えしたくなっちゃうのである。
(しつこく言い続けるけど、金は大事だよ。
そう思っていながら書いていることを、
読者のみなさまは忘れないようにね)

そしてさらにたいしたものなのは、
『パンドラの鐘』の公演は、安くない入場料なのに、
ちゃんと全部あっというまに売れて、
満席が保証されているということだ。
雨が降れば傘をさして、
仕事を抜け出せなければ嘘をついて、
多少の風邪をひいていてもマスクをして、
観客はちゃんとやってくる。

前に、ぼくは、ちゃんとプロとして入場料をとって
仕事している「ポカスカジャン」のすごさを、
無料でしかアクセスしてもらえる自信のない
「ほぼ日」のようなメディアを比べて、
その違いを聞いてみたいと書いたことがあったけれど、
現実の人間が、対価を支払って手に入れようとする
「不要不急のもの」には、
ぼくらに欠けている何かが絶対にあるはずだ。
野田MAPにしたって、
「やること自体がご褒美なんだから」って、
無料にしてやっているわけではない。
野田くんと稽古場で話していて、
あらためて驚いたのは、
「だって、芝居やらなきゃ食えないしさ」という、
彼のなにげない言葉だった。
耳にして快感さえあった。

前回、本が売れないこと、
本を書く人たちが本を出すことで食えなくなっていくことを
やや強迫っぽく書いた。
あんのじょう「彼らは好きこのんでやっているのだから、
そんなことを心配するのはお門違いだ」
という意見も頂戴した。
それに返事をする気はまったくないけれど、
いいクリエイティブをして、
それで食っていけるということは、
ほんとうにたいしたことなんだ。
「芝居さえやらなきゃ食っていけるのに」という人も、
おそらくいっぱいいるのだと思うけれど、
「芝居をやらないと食えない」という野田くんの発言は、
もうユートピアの先取りみたいに聞こえてしまった。

このあたりに、クリエイティブの運命を変えるヒントが、
きっとあるのだと、ぼくは考えている。
ダンピングされることも、衰弱させられていくことも、
いま「クリエイティブ」が引き受けざるを得ない
シナリオなのだろうけれど、
ただ単に一所懸命に「個人が売れるための努力」をしても、
「効率的なクリエイティブ市場」を研究してみても、
小さな競争原理のモーターが回転するだけだろう。

おそらく、他のどこにもないものならば、
適正な価格で買い取る消費者かいる、
ということを信じて、
新しい価値観、新しい組織論、新しい表現を、
正面から探していこうとするのが、
平凡そうだけれどただ一つの答えなのかもしれない。


ぼくは、野球チームの特権的なファンのように、
『パンドラの鐘』の稽古から舞台までを、
毎日のように見学し続けてみたいと思ったけれど、
それをするには忙しすぎた。
しかし、それでも、稽古場は三度見させてもらったので、
芝居の9割くらいまでは知ったことになる。

あの吉本隆明さんが、大きな資金があったら、
芝居だけはやってみたい気がすると言っていたけれど、
なにか演劇というものは、
他の何にもないとんでもない魅力や可能性を
感じさせるもののように、ぼくも思ってしまっている。

(ほんとに書きっぱなしになったなぁ。
そのうち、また、いろんな考えがリンクしていって、
ちゃんとしたクリエイティブ論だとか、
演劇論になったりするかもしれないと、
ぼくは自分に期待しつつ風呂に入って寝ます)


1999-11-08-MON

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