ダーリンコラム |
<おだやかに語る練習とTシャツ> あらかじめ言いますが、いつもに増して、長いです。 せっかく南の島にいて、だれにも邪魔されることもなく、 自らの思索を好みのままに 羽ばたかせることができるのだから、 いつもとちがった善きことを、 ひとつくらいは身につけるよう励んでみたい。 目の前には子供たちの遊ぶ砂浜があり、 水平線の向こうには、 きっと白い波をつくる工場があるのだろう。 その工場の働き者たちは、今日も休みなく 少しひとつひとつの製品にばらつきはあるけれど、 おおむね素晴らしいと言って差し支えないような 大波小波を岸に向けて届けつづけてくれている。 ものごとをおだやかに語るためには、 どのような修練が必要とされるのであろう。 私はそれを習得することはおろか、 そのようなエクササイズが存在するということさえ 知らずにこれまでの人生を過ごしてきたようだ。 おだやかな語りは、ひとのこころに おだやかでたしかな波紋を描き出すにちがいない。 寒い冬、ストーブも焚かれていない部屋で、 親しいひとがいれてくれる スプーン半分の砂糖をくわえた紅茶のように。 さぁ、おだやかに語る練習をしてみよう。 内容はもう決まっているのだ。 「ほぼ日オリジナルTシャツ2000」の通信販売は、 思えば読者からの声が高まったために決まったものだった。 もともとビジネス方面の 勉強が不足していたぼくは、 弱気の虫ともすっかり仲良しになっていたし、 貧乏性的な暮らし方にも慣れていて、 「ものを販売する」ことには積極的になれないでいた。 それに、ほぼを標榜しておきながら 実際には毎日更新している編集スタッフが、 これ以上の労力を使えるかどうかも疑問だった。 だが、「やりまっしょう」と、 ずいぶん気軽にこのビジネスを立ち上げようとしたのは、 いちばん徹夜の多い金澤セイヒローだった。 だいじょぶかよ、とは思ったが、 「メールによる受注生産」という 得はしなくても損だけはしないという、 とんでもないコスト回避の方法を考えついたので、 ケーススタディーとしてもやるべきだと決意した。 考え付いては尋ねてみるという、 「商店」としては実に頼りない連載がはじまり、 ぐずぐずしながらも、通信販売がスタートした。 いざ、本番の注文受け付けが始まると、 ぼくらの謙虚というより弱気な予想は見事に覆り、 300から400枚の発注は、 その10倍の3500枚にまで達した。 「発送の作業が戦争みたいになりますね」という冗談が、 うれしそうに語られた。 注文数の少ないサイズから生産されてくるために、 とても大きいものと、とても小さいものが、 先にどんどん発送されていった。 この輸送の問題についても、 読者からのメールによる助言が、大いにどころか、 そのままぼくらのやり方の参考になっている。 前代未聞と知り合いの営業マンに言われた、 「買った人からのお礼メール」が殺到した。 なかには、「読む手間がかかって悪いと思ったけれど」 などと、輪をかけて殊勝な文面もあった。 とんでもない。それらのメールが、 ぼくらの「めしの種」ではなく「めし」そのものだった。 へんな表現かもしれないけれど、腹に響いてくる。 うれしい気持ちが、内臓を反応させるのだ。 いくら信念があっても、励ましなしにがんばるのは苦しい。 疲れた日に、読者がよろこんでいるという報告を読むと、 補助タンクのエネルギーが身体中にかけめぐるのだ。 やがて、困ったことが起こった。 シャツに小さな穴が空いていたとか、 ほつれがあったという返品希望の問い合わせだ。 ぼくらも、はしゃいでばかりはいられない。 それよりなにより、こうした不良品を受け取った方々は、 どれほどがっかりした事だろう。 待ちに待った荷物が届いて、さぁ着ようと開いたら、 穴が空いていたというのでは、悔しすぎる。 それでも、怒りをぶつけるわけでもなく、 どうするべきかを問い合わせてくれたお客さんには、 ほんとうに感謝している。 もうしわけありませんでした。 そういう方々の気持ちをまったく考えなければ、 「不良品の現品を送料受取人払いで送り返してもらって、 新しい商品を送る」という方法もあるかもしれない。 しかし、だ。 欠陥のある商品を受け取った人たちには、 何の責任もないのだ。 理由もなく、ただハズレくじを引かされてしまったのだ。 そのせいでがっかりしている人に、さらに、 送り返すという面倒をかけてもいいのだろうか? ぼくは、ここは大きな考えどころだと思った。 もし、これが食い物や歯磨きペーストなどの 消耗品だったら、重大な検査のために 送り返してもらう必要があるかもしれない。 その場合には、丁重なお詫びと、お礼が必要だと思う。 だが、Tシャツの不良品を 手間をかけさせて返送してもらうのは、 取り替えの新品を送るときに、 たしかに「ホントに不良品でした」という 証拠品の意味しかないのではないか。 ぼくらが、いまいちばんこの通販ビジネスに よろこびを感じているのは、 「顔の見えない他人どうしが、おたがいを信頼している」 という、そのことに他ならない。 ビジネスという限りは、気弱だろうがへたくそだろうが、 利益を追求するのは当然のことだ。 しかし、利益を追求するだけが目的では、 「どうして一所懸命にやるのか」という <動機>が見えなくなって消えてしまうのだ。 結局、「送り返してもらわずに、新品を送る」 ということを、ぼくらのやり方に決めたかった。 ほんとうは、欠損のある品物などひとつもなければ、 いちばんよいのである。 しかし、衣料などの軽工業製品には、 そういう間違って生まれた製品は必ずでてくるだろう。 もうしわけないけれど、それは理解してもらおう。 その後のことだった。 ぼくらのところに商品を納入する代理店に、 不良品の数だけ割り引きを求めたスタッフが、 がっかりしたように報告してきた。 「不良品の現物がなければ認められない」という。 もともと、安くない卸値で仕入れている製品だし、 最初の予想の10倍も発注したところで、 一枚あたりの下代単価を下げてくれてもいいはずだ。 (しかし、それに気づかなかったぼくらは、 高い授業料として、そのことについてはあきらめていた) 卸した品物はすでに検品されて ぼくらのところに届いているはずだ。 欠陥のある品がお客さんのところに届いてしまったことは、 誤ちであり、謝るべきことだと、素人のぼくは考えていた。 しかし、一枚ずつ透明の袋に畳んで入っていた シャツを、「ほぼ日」が検品しなかったのがいけない とまで言われてしまったらしい。 はじめはちょっと感情的になってしまった。 不愉快だと思った。 しかし、考えようによっては、 毎日とんでもなく大量の商品を、 顔の見えない消費者に向けて販売しているプロにとっては、 当然のやり方なのかもしれないと考え直せるようになった。 だが、ぼくは、顔の見えないお客さんの顔というものが、 見えるような気がしているのである。 甘いと言われれば甘い考えかもしれない。 そのうちには、こういう考えができなくなる可能性だって、 無いとは言えないわけだ。 これから、いまの何倍も多くのお客さんと やりとりするようになったら、 そういう「新しいような」ことは言ってられなくなって、 「やっとあいつもビジネスのいろはがわかってきたな」 なんて言われるのかもしれない。 でも、いまは、ちがう考えを持ちたいし、 知らない人どうしが、信頼関係を軸にしてビジネスを 成立させることができると信じていたいのである。 当面、ぼくの知っているかぎりでは、 4人のお客さんに不良品が届いて、迷惑をかけている。 その人たちに、送り返してくださいと、 言うのはひょっとすると常識なのかもしれない。 しかし、問題はそういうことではないのだ。 ただ、それで事務手続きは済んでも、 なんか釈然としない気がする。 他の方法はないものなのだろうか。 お役所仕事でもないのに、 「証拠の品と引き換えに新品を渡す」のが常識なら、 もっとみんなが納得する新常識というのはないものか。 今回Tシャツの業者と、 ぼくらのやりたいビジネスについて、 ちゃんと話ができていなかったのも悪いかもしれない。 素人のぼくらが、夢みたいなことを語っても、 耳を貸してくれるチームとリンクして、 これからは一緒に考えていけるプロジェクトを、 組もうと思う。 いろんなことを、ひとつずつちゃんと考えて、 今回発注した業者とは、もう組まない方がいいと、 バリにいながら結論をだした。 ほんとは、もっと感情むき出しの 文章を書いていたのですが、 こんなところ落ち着きました。 かえって、何が言いたいのかわからないような へんな「ダーリンコラム」になったかもしれませんが、 許してください。 また、欠陥品が届いてご迷惑をかけてしまった方々、 あらためて、本当にもうしわけありませんでした。 どんなときにも落ち着いている金澤セイヒローが、 事後の処理に付いては、 それぞれに合わせた対応をすると思いますので、 どうぞ、ご面倒でしょうがよろしくお願いします。 |
1999-12-27-MON
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