ダーリンコラム |
<相手をなめる> これから書くのは、2002年最初のダーリンコラムで、 さぞかし力の入ったご意見を、と あらぬ期待をされるむきもあろうけれど、 まったく逆ね。 まるで下ネタのようなことなので、 読みたくない方々は、いまからやめといたほうがいい。 でも、下ネタのつもりは本人にはないので、 そのへんのところ、よろしく。 とにかく、書きだしてみようかね。 あんまり自慢できるようなことでもないので、 言わなかったけれど、 幼児の好きな「うんこちんちん」には2種類あって、 うんこ派とちんちん派に分類される。 ぼく自身は、けっこううんこ派だと思われているようだが、 実はけっこうちんちん派で、 これだけは、どうにもなおらないみたいだ。 女性にはわかりにくいかもしれないけれど、 あんな、「ちょいとしたもの」が存在することって、 やっぱり持ち主にとっても不思議なもので。 その奇妙な感じは、一生つきまとうような気がする。 身体のバランスからいって、あれがあるってこと自体が、 かなりの違和感である。 造物主の意図としては、その違和感が狙いで、 「ああ、違和感だなぁ」という感覚があるからこそ、 この違和感をなんとかしたいものだと、 繁殖行動に走るようにインプットされているのではないか。 ぼくの仮説によれば、最近過剰に流行している 巨乳ブームみたいなものも、 あれは「ちんちん的違和感」の一種なのである。 差異こそがメッセージなのであるからして、 さまざまな差異を受けとめることのヘタになった男たちが、 目に見える差異であるところの巨なる乳に、 強いメッセージ性を集中させてしまったのだ。 だから、あまりに自然な乳房よりも、 「あ、でかい」とすぐに気づくような違和感のほうに、 反応してしまうのである。 ただ、おそらく、巨乳のほうは、 持ち主の違和感よりも、 それを認める側の違和感のほうが強いのだろう。 で、ちんちんに戻りますが、 それが形而下的に大きいほど、 違和感も大きいことになるようだ。 ぼくが小学生のころ、 近所の中学生と立ちションをしていて、 ふとかいま見えたその大きさに衝撃を受けたことがある。 「なんだ、こりゃ」と、小学生は思った。 思わず、「よっちゃん、でかい!」と声がでたのだが、 そのでかいの持ち主は、「そうかぁ」と、 まんざらでもなさそうにしていた。 その後、変声期くらいの時期を境に、 いわゆる第二次性徴ってものがやってきて、 幼児ちんちんが、青年ちんちんへと 飛躍的に成長するということを知ったのだけれど、 ありゃあ、びっくりしたもんだ。 いま考えてみれば、 よっちゃん、特別にでかいわけでもなかったかもね。 小学生には、現実に見たものがすべてで、 それ以上の想像力は働かなかったのであった。 と、ここまでが長い前フリでありまして。 といにかく、ちんちんという差異が、 でかいほうがよりセクシーであるという幻想には、 とてつもなく根強いものがある。 ぼくは、けっこう江戸時代の浮世絵が好きで、 いくらか集めたこともあるのだけれど、 浮世絵のいちジャンルに「春画」というものがある。 これが、ねぇ、知ってる人は知ってると思うが、 リアリズムも遠近法もまったく無視していて、 とーーにかく、(男女共になんだけど) 性的差異部分だけがとんでもなくでかい。 ものの道理のわかった大人なら、 そんなやつぁいねーよ、とわかりそうなものだけれど、 圧倒的な大きさでちんちんが描かれているのだ。 さらに、いいことか悪いことか知らないけど、 絵師の技量のせいか、 その馬鹿馬鹿しいほどのデフォルメが、 妙にバランスよく感じられてしまうように描かれている。 小学生時代の自分が見たら、 「なんてこった」と素直に感心してしまったかもしれない。 つまり、それは、小学生はものを知らないからね。 ところが、こういう話があったわけだよ。 「フランスのおんなどもは、浮世絵で日本人はでかいと 思いこんでいるから、日本人の男は、 ウタマーロとか言われて、もてるらしいぜ」 ま、妄想を含んだ俗論ではある。 ところが、これが、意外と信じ込まれていたようなのだ。 つまり、歌麿などに代表される版画の デフォルメされた性器表現を、 「フランスのおんなども」は そのままリアルに受けとめている・・・ ということになる。 さぁ、ものの道理を知った大人なら、 そんなことあるわけないとわかりそうなものなのに、 案外、信じ込んでいる人が多かったりするわけだ。 いるんだよ、けっこう、ほんとに。 しかし、欧州人は、バカじゃないし子供じゃない! 背丈も小さい日本人が、あんなにでかいなんて、 本気で思っているわけがないだろ?! つまり、「ウタマロ伝説」を信じているおじさんたちは、 フランス人はバカだと思っているということなのだ。 こんなことが、どうして起こるかといえば、 「相手の言葉が理解できないから」なのではないかと思う。 フランス人の言葉がわかっていれば、 彼らが、バカじゃないことくらいはすぐにわかる。 しかし、言葉がわからない場合は、 「たいしたことを考えてない」と 決めつけてしまいがちなのだ。 これは、なにも 「ウタマーロ問題」のようなことだけではない。 「アメリカ人は、なんでも大味だから」とか、 優越感にひたりつつ日本のことを語る俗論には、 ほとんど、言葉のちがう人々をなめた気分がある。 相手をなめていながら勝つケンカはないし、 相手をなめながら仲よくなるなんてこともできない。 「うちの父ちゃん」「うちのバカ息子」から、 「方言のちがう地方の人々」やら、 「ガイジン」や「宇宙人」にいたるまで、 言葉がわからないがゆえになめてしまっていることで、 いろんなことがうまくいかなくなっているケースは多い。 こっちの言葉の体系で、相手は考えちゃいない。 あらま、うんこちんちんの話ではじまったんだけど、 こんな展開になってしまいました。 今年も一年よろしくちんちん。 |
2002-01-07-MON
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