ダーリンコラム |
<ぎんなん30万円。> たまたま観ていたテレビで、 女性のホームレスを取材した番組があった。 女性のひとり歩きが危険なように、 女性のひとりホームレスも危険が多いので、 男性のパートナーがいると心強いとのことだった。 「ごく普通に見えるサラリーマンが、 売春の誘いをかけてくる」と言っていた。 このあとのセリフが、また切ない。 「安くできるからってことらしいんですよね、 100円とか、200円とか、言ってくるんです」 痛ぇなぁ、こういうリアリズムって。 特別な例をあげただけかもしれないけれど、 超自由市場とでも言うんですかね、圧倒されるね。 人は、ここまで人を馬鹿にできる。 馬鹿にした人は、自分をここまで馬鹿にしてる。 ってことなんだろうけれど、まいったね。 こういうことを「そりゃそうだろう」と思えるのが、 大人ってものなのでしょうかねぇ。 と、そういうことが今回のテーマじゃないんだ。 その女性ホームレスの人は、 どうやらパートナーもできて、 ある程度共同で生活しているらしかったんだけど。 そのふたりの生活費ってのが、 秋に公園や歩道に落ちている「ぎんなん」を 拾うことで賄われているのだという。 なるほどなぁ、と感心してしまった。 彼らが拾い集めるぎんなんは、 ぜんぶで約30万円になるのだそうだ。 これを、基本的に一年の生活費にするのだという。 ぎんなんを、ぼくは好きだ。 つまり、ぎんなんの消費者はここにもいる。 そして、誰がどう拾い集めるかは別として、 東京のあちこちに、秋になるとぎんなんを実らせる イチョウの木があちこちにある。 ぎんなんの実を拾い集めることは犯罪ではない。 ま、ぎんなんにしても、あの臭い匂いの実の部分を キレイに掃除して種子の状態にする手間はかかるけれど、 もともとは、タダで落ちているものだ。 そうかぁ、こんなところにも「生活手段」はあったんだ。 そんなものはないと思いこんでいた。 ふだん、世の中の、どこをどう見回しても、 「所有権のあるもの」ばっかりが目に入る。 タダのものなんてどこにもあるものか、というイメージで、 ぼくらは生きているように思う。 ところが、探せばあるんだよなぁ。 所有権のない資産というか、 無料で転がっている価値だとか、 そういうものは、実はまだ生き残っているのだ。 そういえば、神奈川の河口のほうに、 フッコ(スズキのやや小さなもの)を釣りに行ったとき、 シラス(うなぎの稚魚)を獲っている人たちがいた。 たしか、今ごろがその季節だ。 小さなシラスを網ですくって獲るのだけれど、 これをどんぶり一杯集めると何万円になるのだとか 言っていたのを憶えている。 ひょっとしたら 漁師以外は獲ってはいけないのかもしれないが、 素人っぽい「一獲千金狙い」の人たちが、何人も、 防寒着をまといカンテラの光を水面に向けていたっけ。 そうだ。 そう言えば、釣りも「所有権」のない価値を、 水のなかから引っぱり出す愉しみがある。 ぼくはどちらかと言えば、ゲーム型の釣りが多いけれど、 海で食える魚を釣っている時なんかは、 たいていの場合、誰かしらが、 「それ、魚屋で買ったら何千円だぜ」などと言っている。 (釣りの費用を考えると割りに合わないのにねぇ) 世界中が、所有者のあるモノばかりで、 網の目のように法律がおおっていて・・・というような 幻想が、ぼくらにはなんとなくあるのだけれど、 ほんとうは、「そうでもない」と 考えたほうがいいのかもしれない。 山奥で、人の入らない場所で立ち小便をするときに、 「ほんとは法律に触れるんじゃなかろうか」などと 話し合うなんてことは、実は、妙なことだ。 資本主義の法律やマナーやエチケットなんてものは、 地の果てまでおおっているものではないはずだ。 一見、そんなふうに見える東京の真ん中にも、 ぎんなんが落ちているし、 それを拾うのは住民票もあやふやな人たちだし、 海の中の魚は値札も付けずに泳いでいる。 いや、よくよく考えると、 感情だとか、動機だとかいうものも、 商品になっていない部分がとても大きいものだし、 すばらしいアイディアだって、 空気のなかから無料でつかみだすようなものだ。 いま、時代の「閉塞感」については、 いくらでも語られているけれど、 その「閉塞」ってドームのあちこちに、 ほんとは空気のすかすか通る 穴が空いているのではなかろうか。 |
2002-01-14-MON
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