ダーリンコラム |
<板ゴムのような時間> 論、というようなものを書くつもりじゃないし、 できかけの考えを、友だちに向かって しゃべるような感じで書いていくので、 そのへん読むほうも、ご理解、よろしくね。 板ゴム、というものがあるのかどうかは知らない。 いや、そういうものはあるのだ。 それは、「コント・ゆーとぴあ」が口にくわえて、 ぱっちーんとやる、あの長くてやや平たいゴムのことだ。 昔のパンツに入っていたあのゴムのことだ。 それを、なんと呼ぶのかわからなくて、 帯ゴムという響きもピンとこないので、 仮にぼくは「板ゴム」と言ってみたのである。 そういう前置きは、どうでもいいんだけど。 青山スパイラルホールで、初日を迎えた 大竹しのぶのひとり芝居『売り言葉』に行った。 作・演出が野田秀樹。 同じ場所で、野田秀樹は昨年の2月に、 やはり自分の作・演出で『2001人芝居』と題して ひとり芝居をやっている。 芝居の内容そのものについては、 他にいくらでも劇評がでるだろうから、 少しだけにしておく。 高村光太郎の「智恵子抄」を下敷きにした演劇だ。 表現の世界に関わった一組の恋人たちが、 現実から浮遊していって、 言葉が自分のものでなくなっていく話、 というような言い方でいいかなぁ。 『売り言葉』ってタイトルが、 「売り言葉に買い言葉」というケンカのイメージと、 「売文」という意味と、両方を表しているんだけど、 ぼくとしては、後者のほうの印象が強く残った。 言葉もまた道具であり、それを使う能力は、 どんどん磨かれていくわけだけれど、 道具や道具の使い方が、磨かれれば磨かれるほど、 その使い手の人間を変えていく。 たとえはキツイかもしれないけれど、 自分の身体が売り物になると知った少女にとって、 愛や性は、彼女を幸せにするものであると同時に、 どこまでも不幸にするものである、というようなことで。 野田秀樹にしても、大竹しのぶにしても、 表現を「仕事」にしている人間であるかぎり、 この舞台で批評的に表現した 高村光太郎と智恵子の抱えたような悲喜劇を、 自分のなかに隠し持っているわけだ。 それは、ぼくみたいな表現の場の片隅にいる人間にしても、 逃げることのできない泥沼なのだと覚悟している。 詩人の高村光太郎は、 あの純愛物語としての『智恵子抄』を書いたのだけれど、 智恵子の夫である現実の光太郎さんは、 何ヶ月も智恵子の病室を見舞うこともなかった。 それでも、『智恵子抄』は純愛の美しさに満ちている。 そして、そこに書かれている世界は、 現実の姿に関わらず真実でもあるのだ。 ったくなぁ・・・・。 しかし、野田秀樹が、 ここで語ったような『智恵子抄』の世界を、 ひとりの表現者として 題材に選び取ったということの度胸はスゴイ。 しかも、よくは知らないけれど、 ひとたびは一緒に暮らしたことのある 大竹しのぶを共犯者に選んで、 この演劇を成立させているということが、 さらなる迫力になっている。 これは、「ひとり芝居」としてでなければ、 他者を巻き込んではいけない表現だったのかもしれない。 とここまでは、劇に添った感想だけれど、 ぼくが舞台の大竹しのぶを見ながら考えていたことは、 また別のことだった。 実は、もっとなんかくだらないことだったわけ。 それが、板ゴムのことなんだ。 芝居の終盤になってくると、その匂いは減っていくのだが、 開幕から中盤までの大竹しのぶの演技は、 作家であり演出家である野田秀樹が乗り移ったように、 隅々まで「野田」の思い通りなのである。 野田秀樹の考えが、野田秀樹の動きが、 過不足なく 別の人間である大竹しのぶによって再生されている。 これはどういうことなのだろうと、思いはじめた。 野田秀樹が書いた智恵子の言葉は、 そのまま、大竹しのぶの肉体を通して増幅され、 ぼくらの観客席まで押し寄せてくる。 ぼくらは、大竹しのぶが、 セリフとして智恵子を演じていることを知っているのに、 ほんとうに「しゃべっていることを思っている」と 錯覚してしまうのである。 それが演劇でしょうが、と言われりゃそれまでだ。 しかし、普通は、こうは行かないんだよ。 野田と、大竹が、もっと分離していたって、 演劇としては成立しているはずなのだ。 重なり過ぎているから、不思議を感じてしまったのだ。 大竹しのぶの声帯を震わせて発せられる言葉、 野田秀樹の思考である。 それを、ぼくらは大竹の言葉として耳に入れる。 しかし、野田の脚本というのは、 「野田の個性」をセリフのなかにたっぷりと まぎれこませるというのが特長なので、 ぼくらは、同時に野田のセリフのように その言葉を聞いてしまうのだ。 大竹が声を出すたびに、 おお野田が語っている、という聴き方をしてしまう。 だが、あれほど大竹の肉体にフィットしている言葉は、 やはり大竹の言葉、 あるいは、大竹が演じる智恵子の言葉なのではないか? ひとつひとつのセリフが発せられるたびに、 ぼくは、3人の人間の心を聞くことになる。 入れ替わり立ち替わり、表になったり裏になったり。 ぼくの頭の中で3人がぐるぐる回る。 ひとり芝居というスタイルでなかったら、 こんなことは、気づきにくかったのかもしれない。 やがて、ふと、ぼくは思った。 それは速度ということだった。 大竹しのぶの口から機関銃のように飛び出してくる言葉を、 書いたのは野田秀樹である。 大竹しのぶが、あの速度であんな言葉を連射している ということではなく、 その弾丸を準備したのは野田秀樹である。 しかし、野田秀樹は、 あの大竹しのぶが発射する速度で、 果たして、あれだけ大量の弾丸を撃っていたのか。 つまり、原稿用紙に向かった作家野田秀樹は、 あの大竹の速度で思考を走らせたのかといえば、 そんなことは考えにくい。 それは一部分ならありえても、全体には不可能である。 野田秀樹は、自分の作家としての速度で思考した 言葉の連なりを、大竹しのぶの速度に乗せるのだ。 コンピュータを使って絵を描く人が、 画像の一部分を拡大して、ていねいに修正することがある。 ああいった細密さで、おそらく 作家は思考し文字を連ねる。 ここで重要なのは、密度だ。 そして完成した思考の弾倉は、役者に渡され、 作者が思考したときの速度の何十倍の速度で連射される。 ここでは速度が大事になる。 あの密度を、この速度で発射しつづけるとは、と、 観客はあわてて作者たちの思考を追いかける。 追って追いつくものではない。 追いつけそうで追いつけない速度が、 野田秀樹のマジックなのだから。 追いつけそうで追いつけそうで追いつけず、 時々、急旋回やハズシで追うものを立ち止まらせる。 これは、観客にとってはくらくらする快感だ。 「めまい」という遊びの極意が、 野田秀樹の芝居の麻薬性なのかもしれない。 だが、おもしろいことに、 あの密度、あの速度を「実現」している人間は、 ひとりもいないのだ。 考え書く野田秀樹(作家)に、その時点で速度はなく、 思考を超速度で発射する大竹しのぶには、 その思考は重なっていないはず、なのだ。 なのに、その両者が合わさったときには、 どちらも完全な密度と速度を持っているように見える。 つまり、 「あのようなことをあのような速度で考え話す」人間が、 現実にいるように思えてしまうのだ。 これが、演劇のすごさだ。おそろしい人たちだ。 最初に板ゴムのことを言いだした場面に戻ろう。 時間というやつが、 この板ゴムのようなものだと思ったのだ。 まず、作家が思考した時間がある。 考えが練られていく過程は、行きつ戻りつもできるし、 考えることをストップさせることも、 修正したり加筆したりすることもできる。 こうしてできた思考の連なりが、 演出家と役者に渡される。 仮にここまでに30日間という時間があったとする。 台本という30日間かけた思考の連なりは、 稽古場に持って行かれて、 演出家の意図を通して役者の肉体に刻み込まれる。 ここでの時間を、仮に10日間としよう。 そして、舞台だ。 役者の肉体が声帯を震わせて 外界に発信する速度に変換される。 ここで10日間の時間は、2時間に圧縮される。 その思考を観客が受け取り 自分のなかでイメージを組み立てる速度。 これについて、観客は自由にはなれない。 舞台の時間の流れに合わせるしかない。 だから、容れ物は2時間で、 思考に理解の「こぼれ」がでる。 仮に「こぼれ」を時間に換算して、1時間としてみよう。 そうすると、観客の受け取る時間は3時間。 30日間、10日間、2時間、3時間と、 それぞれに時間は異なるのだけれど、 「語られているもの」は同じなのである。 伸ばしても縮めても、同じ板ゴムなのだ。 なんでこんなことを考えたかといえば、 あまりにも、大竹しのぶの演技が、 野田秀樹のひとり芝居の演技に似ていたからだ。 「おいおい、大竹しのぶは、野田秀樹と同一人物かい?」 と、思ってしまったのだ。 呼吸もそうだし、動きもそうだ。 それよりなにより、セリフが、まるで、 自分の言葉として連射されているように思えたからだ。 他人のつくったセリフのように見えなかったからなのだ。 そんなことがあるのかい、と思ってしまったのだ。 いや、リアリズムのセリフなら、不思議はないんだよ。 語られているのが「野田語」なので、ね。 大竹しのぶが、ふだんから、 野田秀樹の思考を持っているかのように見えたので、 そんなこと、あるのかいな、と思っちゃったんだよ。 ところが、オチがあるんだ。 大竹しのぶの演じる智恵子が、 だんだん狂人になっていくと、 野田秀樹の演出家としての姿が 見えなくなってくるんだよねぇ。 狂うにしたがって、大竹しのぶの自前の演技になっていく。 そこんとこが、おもしろかったなぁ。 野田秀樹自身が、パンフレットのなかで言っている。 「狂気を扱ってみようと思ったのは、 ひとえに大竹しのぶという 稀有な女優さんがいたからこそで、 これは滅多にないチャンスかもしれない、 そう思って、自分の中では封印しているはずの 狂気に挑んでみることにした」 ああ、そうか。 なーるほどなぁ。 おもしろかったわ。とにかく。 いつも野田秀樹のやることには刺激的されるなぁ。 すいません、今回は、とにかく なんかしら書いてみたくて、わがままに書いちゃいました。 |
2002-02-04-MON
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