ダーリンコラム |
<新しさの呪い> 広告の表現のなかで、無条件で力を持つメッセージが 『新発売』の3文字である。 新しいということはニュースであり、 新しいことは、そのまま価値を表しているのだ。 新しさが価値であるということは、 無意識であるにせよ、みんなが知っている。 「お、新しいね」と言ったら、 「イイね」と言ったのと同じことだ。 フェミニズムの方々からは、引用するだけで叱られそうだが 『女房と畳は新しいほどいい』なんていう俗説も、 いまでも説得力を持って語られている。 新しさの価値が、安定していったのは、 文化、文明、経済、と、いろんなものが、 「時間が経つにつれて、よりよくなる」と、 人々に信じられていたせいだと思う。 新しいものは、前からあったものよりも「いい」。 そういう可能性が強く感じられたからこそ、 新しさが価値を持つと、人々に考えられるようになった。 しかし、時代は、 時が経つにつれてよりよくなるというものではない。 よくしたい、とか、 よくなりますように、と願うことはできても、 時代が進むことと、いろんなことがよくなることは、 決して重なってはいない。 ほんとうはみんなそのことを知りはじめたはずなのだ。 しかし、しばらく前までは、 新しいことと、よいことが、重なっていると思えていた。 そういう価値観の時代が、かなり長く続いていたのだ。 「自分が育っていた時代の価値観はすてにくい」ものだ。 「新しいはすばらしい」というのが、 その文字面とは裏腹に「古い」考えであることは、 なかなか気づきにくいことなのだと思う。 (筋金入りの新しもの好きは、気づいているわけ、だな) 少しでも新しく、人よりちょっとでも新しい情報を、と、 必死になって新しいネタを探し回る努力。 ちょっとだけ古いものを、あわてて捨てるような見栄。 そういうことを身に付けていたら その人の価値があるように見えてモテた時代もあった。 「事情通」「情報通」というホメことばもあった。 しかし、新しいことが、そのまま「いい」ことでないのなら 人より先になにか「たいしたことのないもの」について 知っていることは、どんな価値にもならないはずだ。 それでも、新しさを追い続けることを、 やめられない人たちは、いくらでもいるだろうとは思う。 どれだけ先物買いをして、どれほど早く捨てるか。 それに命を賭けている人だって、いるわけだ。 しかし、そこに「新しい」以外の価値の発見が、 どれだけできているかのほうが、 ほんとうに命がけの勝負をすべきことなのだ。 しかし、「新しさの呪い」がかかっている時には、 それを解くのはむつかしい。 どっちが新しいかの競い合いを続けていると、 その場面で負けるのが、怖くなる。 新しさという価値の軸で勝負するのは、 実は簡単なことだ。 あとから登場したものを絶えず選んでいれば、 いつだって新しいからだ。 そんな競争のなかで、 「よい」が見えなくなっていくのを防ぐ方法は、 なかなか見つからないものだ。 いつのまにか、ぼくは新しさについての 強い興味を失っていたことに気がついた。 それからの自分のやっていることのほうが、 苦しさも増えたけれど、ずっとおもしろくなっている。 |
2002-03-18-MON
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