ダーリンコラム |
<あかだし雑談> あかだし、と言っても味噌汁のことじゃない。 垢であります。 垢を出すこと。垢だし、垢すり。 なんか、あかだしって、みんな、好きだったりしない? 開高健さんの小説『玉、砕ける』の玉なんて、 あかすりで出たあかを丸めた玉だもんなぁ。 永井豪さんの傑作『オモライくん』の場合なんか、 主人公のオモライくんの身体のほとんどは、 あかでできていて「着ぐるみ」状態になってるんだよね。 あかって、さっきまで自分の一部であったもので、 そのあかをも含めて「自分」だったわけで。 キタナイ、イヤだ、という気持ちと、 ちょっと愛おしい感じと 両方が、見る側にあるんじゃない? そういうこと言うと、雲古についても 「さっきまで自分だったけど、キタナイもの」 という意味で同じだということも言えるんだけど、 これは「貯蔵」されていたっていう感覚で、 自己の内部にあった他者、というとらえ方になりそうだ。 人体を、ひとつのパイプ状の、 食物を取り入れては排出する仕組みの構造だとしたら、 雲古は、そのパイプの中の「もの」で、 あかは、そのパイプそのものというイメージがある。 だから、ちょっと好きになりやすいのか、といえば、 いやいや、そんなに簡単なものじゃない。 あかは、やっぱり好かれてるわけではない。 それでも、あかが出たあとのうれしさは確かにある。 しばらくまともに身体を洗ってなかった後で、 セッケンの泡に混じって排水溝に流れていく 大量のあかを、ぼくはヨロコビとともに見つめてしまう。 「もし、ここであかを出さなかったら、 ぼくはこの汚れとともに存在していたのであることよ」 というような気持ちなのだろうか。 もう自分は汚れてないというような、清浄願望っていうか。 できものができて、ウミが出るときもうれしいよね。 風邪が治るときのタンが出るのも、うれしい。 ぼくはあんまり知らない感覚だけど、 便秘の人がやっと出たという時なんて、 ほんとにうれしいらしいよね。 宿便とりの話なんて、みんな強い興味を示すもんね。 そういえば、イタリアから来たとかっていう 「耳あかとり」も流行ったっけなぁ。 ぼくもやりましたよ、ありゃぁ、インチキだったね。 あんなに耳あかがあるわけないじゃないねー。 たぶん、紙にしみこんだロウが溶けてたまるんだ。 でも、いっぱい出たぞって、大喜びもしてたね。 すごいのは、脂肪吸引とかだね。 あれも、出た分を何キロとか確認して よろこぶんだと思うよ。 「出ましたよ」 「ど、どのくらいですか?」 「教えられません」 なんてことじゃ、やった人は怒るだろうよ。 とにかく、自分以外の何かが「自分に含まれている」 ということについて、人って、イヤなんだろうね。 自分はこんなんじゃない!と、 思いたい気持ちもあるんだろうなぁ。 「ワタシ、ふとっちゃって」とさかんに言う人も、 本来のワタシってのは、余分な脂肪を除いた 「純ワタシ」なのよ、ってことなんだろな。 「純ワタシ」っていう理想のワタシが、 なんかの事情で、仮のワタシになっているだよね。 たぶん、ほんとのワタシは「純ワタシ」のほうなんだ。 だけど、まるっきりの「純ワタシ」なんて状態で、 いられるわきゃぁないんだよな。 でも、そっちを求めちゃうんだな、誰も。 清浄願望も、純ワタシ願望も、 ヒマといえばヒマ、平和といえば平和な話かね。 あ、いま急に思いついたんだけど、 あかがまったく出なくなったら、怖いだろうな。 新陳代謝が止まっちゃってると、知るわけだからねぇ。 あんまりキレイでない話で、失礼しました。 |
2002-04-22-MON
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