ITOI
ダーリンコラム

<敗者の美学なんて、飽きてない?>

読みかけの本が10冊以上もある。
それなのに、新しく買った本をまた読み始めてしまう。
日曜日に床屋に行くのに、ひょいと手に持ったのが、
『「超」一流の自己再生術』
(二宮清純・PHP新書)だった。
二宮さんの書くもののファンだし、
スポーツマンを題材にして、しかもテーマが「再生」
というのだから、読んだらおもしろいに決まっている。

あんのじょう、おもしろい。
まず前書きの部分に、かなり挑発的な文章を見つけて
すっかり刺激されてしまった。

私は「敗者」にさして魅力を感じない。
翻って「勝者」はいつも魅力的だ。
なぜなら「勝者」とは、いつ、どんな場面においても
「敗者」よりも思索を巡らせ、工夫をこらし、
相手より一歩でも先んじようと
努力を怠らなかった人たちのことをいう。
結果としての「勝利」とは、
神がそっと与えた褒美であり、
次のステージに進むためのパスポート
という言い方もできる。
ところが、この国では「敗者の美学」という言葉が
肩で風を切るように公道を闊歩し、
勝因や敗因を分析する根気のいる作業よりも、
責任を放棄したようにすら思える感情の発露の方に、
なぜか支持が集まる。

二宮さん、ぐっと身を乗り出して
本気で語ってるなと思った。
敗者の美学を語ることは、かつては
独自の視点であったし、魅力もあった。
しかし、それは、勝者への称賛のみが伝えられるような
情報の少ない時代の「おっとどっこい」な
視点だと思うのだ。

いろんな見方がある。
そのいろんな見方の無数ともいえるバリエーションが、
さまざまなメディアで紹介されるようになると、
相対的に、称賛されるべき勝者も、
「ただの参加者のひとり」という位置に
下がってきてしまう。
さらに、「敗者の美学」が常識的な視点になってくると、
その観察者の視点に合わせて、競技者に変化が起こる。
「絵になる負け方」をねらう競技者がいても、
いまではまったくおかしくないし、
ドラマチックな敗者のほうが、「おいしい」というような
勝敗の価値観を逆手にとったような演出さえ
いまでは可能になっている。

こういう現実は、気持ちのいいものではない。
勝つことがおとしめられたら競争は成り立たなくなる。
勝つことだけが大事なのではない、ということはわかる。
だが、その時々のルールのなかで、
勝つことが目標にならないとゲームはできない。

勝ったものが驕ることは美しくない。
が、勝ったものが讚えられないとしたら、
それもやはり美しくない。
「勝者は十分に何かを得たのだから、
もうそれ以上与えなくてもよいではないか。
むしろ、足を引っ張られるくらいでちょうどいい」
というような、妙なリクツがどうも世間にあるように思う。

考えてもみよう。敗者だって、次に勝てば勝者なのだし、
勝者になろうとして懸命に戦ってきたのだ。
与党と野党といっても、
野党が力を持てばそこからは与党なのだ。
「負けている側に理がある」とか、
「敗者こそ美しい」などということは言えるはずがない。

「敗者の美学」が強調されすぎることは、
知らずしらずのうちに
勝つことが禁じられてしまうという点で、
当の敗者にとっても、迷惑な話なのである。
勝ちたくて勝ちたくて、敗者になったのが彼なのだから。
勝者たちが、何をしてきて勝ったのか、
勝者にあって敗者に足りなかったものは何なのか、
それを、もっとも知りたいと思っているのは、
次の試合にエントリーする敗者であるはずなのだから。

『勝つことよりも大事なことがある』と言ったのは、
ぼくの尊敬する元・巨人の監督の藤田元司さんだけれど、
その言葉に感心する前に、
『負けることよりも、勝つことが大事だ』と、
上の句を付けておいたほうがいいかもしれない。

勝とうとせずに努力をすることは、
凡人にはとても困難なことである。

二宮さんに刺激されて、ぼくも
やや興奮気味に書いてしまったけれど、
この『「超」一流の自己再生術』という本を読むと、
きっとあなたも、勝者たちに、
まず惜しみなく拍手をおくれるようになると思う。

自分は、どうしたいか、どうなりたいのかについては、
その後でよーく考えてみたら?
自分の時間をたっぷり使ってさ。

2002-05-13-MON

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