ITOI
ダーリンコラム

<隣人とはどこにいるのか>

またかと言われそうだけれど、風邪をひいていたらしい。
節々は痛いし、熱っぽいけれど、
疲れのせいだと思っていたが、どうやら風邪だ。
でも、今日書かないと、億劫になって
そのままになってしまいそうなので、書きはじめます。

ブッシュさんもたぶん読んでいるはずの
新訳聖書のなかに、
「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」
ということばがある。
ここにすべてが集約できるほど、大きなことばだという。

おそらく、限りある命を生きる人間に、
できることは限られているということを、
優れた宗教家は、よく理解していたのだろうと思う。

思い煩いの種子は、限りなくあり、
ひとりの人間の可能性には限りがある。

早い話が、地球の寿命は、約50億年だというけれど、
あーだこーだ言ってても、
50億年後には、地球はおしまいになる。
これは、人間ごときが汚したからだの、
粗末にあつかったからだのの理由ではなく、
巨大な熱量の太陽に近づくことによって
終わるということらしい。
悩みようがないくらい大きいし、
想像できないくらい遠い将来なので、
みんな、それを「ない」ことにして生きている。
ひょっとしたら、一部の科学者は
すでに研究をしているのかもしれないけれどね。

また、人間は過去の不幸については、
どうしようもないこととして解決しようとはしない。
戦国時代に生きていた庶民は、
それまでの「人間は生まれ変わる」
という教えを否定してくれた宗教に共鳴したという。
生まれ変わりたくない、と思うくらい
ひどい状況のなかにいたものだから、
「生まれ変わらずに、浄土というところに行くのだ」
という教えが、すばらしいものに思えたのだろう。
それは、さぞかしひどい時代だったのだろう。
そうは思っても、そこに救いには行けない。

人は、それぞれに、
自分にとっての「隣人」の範囲を決めて、
その人たちとの関わりのなかで生きていく。
ご近所で「仏のナントカさん」と呼ばれる人も、
親族の間で「好々爺」と言われている人も、
会社で、「あんな善人はいない」と考えられてる人も、
彼の「隣人たち」を愛した結果、
そう言われるようになったのだろう。
時には、家族だけに好かれていたおじさんもいるし、
組のなかだけで尊敬されていたヤクザの親分もいるだろう。
それも、「隣人」との関係で、得たものだ。

ぼくの好きな「落語の世界」というのも、
隣人だらけの舞台で、かたちはヘンだけれど
不器用に愛しあって生きている人々が描かれている。

かつて、隣人とは、
「日ごろ会う人々」だった。

しかし、人間の動く範囲はどんどん広くなっていく。
落語の登場人物たちが、
「あることさえも知らなかった世界」が、
実は、並行して存在していた。
彼らは伝説の動物「象」というものを知っていたろうか。
メイフラワー号という船を知っていたか。
マッターホルンの山並みを知っていたか。
中世の魔女裁判を知っていたか。
ピラミッドを知っていたか。
おそらく知らなかったろう。

人間は、なかったと思っていた世界が、
実はあったのだということを加速度的に知り続けてきた。
世界中の豊かさと、世界中の不幸とを、
ひとつひとつ知ることになっていった。

おかげで、たのしみも加速度的に増えていった。
遠くのものと近くのものを組み合わせたり、
遠くのものと遠くのものを組み合わせたりして、
便利も、たのしみも、かけ算で増えていった。

ぼくらは、例えばエジソンという人の発明を、
便利に使って暮らしている。
逆に、例えば、宮本茂のつくったゲームは、
ぼくらと顔つきのちがう世界中の人たちに遊ばれている。
衣服も、食べ物も、昔の人が想像もしなかったような所から
隣近所まで運ばれてきて、消費される。

ある国の老人たちの年金を集めた大金で、
別の国を動かすような投資が行われていたり、
ある国が大仕事として育てている麻薬が、
別の国の人々を巻き込んだりもしてきている。
武器をつくる国は、
武器を買う国にいくらでも売りたいだろう。

日曜日の夜、「これは世界初の映像です」と
アナウンサーが注釈をつけて、
テレビで戦争の現場が映されていた。
何十年か前だったら、あの場面を、
日本にいる人々は、何日か後に、せいぜい一枚の写真で
知ることになったというようなものだろう。
隣町の大火事のように、ぼくらは
遠い国での戦争を、ぼくらの生活時間のなかで見てしまう。
映画やテレビの「つくりものの世界」では、
何度も目にした光景だけれど、
それはほんとうに人を殺したり建物を破壊する現場だった。

きっと、ある時代までは頭では理解していても、
その戦争のその場所が「あるらしい場所」にしか
感じられなかったと思うのだ。
新聞にモノクロームの画像が、
数日遅れて掲載されるような時代だったら、
おそらく、もっと「対岸の火事」に感じていたと思う。
想像力だけで補えることの限界があるからね。

こういう時代になってしまったのだ。
どんどん「遠く」がなくなっていくのだ。
そういう時代に、あらためて思う。
「遠く」のない時代の「隣人」って、どうなんだろう、と。
へたをしたら、都会にいる人の場合には、
文字通りの隣に、どんな人が住んでいるかもしれない。
テレビでよく見る芸能人のほうが、
よほどよく知っているような感覚が身に付いている。
そういう場合には、
正体もわからない隣の部屋の人は隣人でなく、
テレビを通じてほとんど知っているような気がする
芸能人のほうが隣人ということになるのだろうか?
「だろうか?」というより、
ほんとのところ、ぼくらはすでに、
そういうふうに感じているのではあるまいか。

こういう時代に、
「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」
という隣人とは、誰のことになるのだろうか?
近所の公園で、中学生に石をぶつけられている
ホームレスのおじさんが隣人に数えられなくても、
地図のどこにあるかもよくわからない国の、
テレビを通じて知った爆撃されている人々は、
隣人と感じられるということも、少しも不思議ではない。

もう、いまは、ほとんどの人が、
生理的には「遠くと近く」の判断が
できなくなっているのではないだろうか。
自分自身の独自の遠近法で、世界中を
自分の物語に組み込んで飲み込んでいく。
その遠近法を組み上げていく材料は、
もちろん「情報」というものだから、
その場の当事者たちは、
さまざまな情報をコントロールして、
「こっちこそが隣人です」というアピールをする。
しかも、それがまた巧妙なのだから、
受け手の遠近法も複雑にならざるを得ない。

自分にとっての、愛すべき隣人というのは、
果たしてどこにいるのか、その混乱が、
日本の人々のなかにあるように思う。
直接には戦争当事者でありたくない立場で、
間接的にはある陣営の応援をせねばならない
という国にいて、
遠くからの情報はいくらでも入ってくる
というのが、いまの日本の人たちのいる位置だ。

いまさら情報を遮断するわけにもいかないし、
鎖国することもおかしい。
いやでも進むべき方向に、世界は進んできたのだから。
情報の多い「遠く」が近く感じられ、
見知らぬ「近く」が遠く感じられるようになってしまった、
そういう時代に、ぼくらは「隣人」を見つけ直す
ということをしなくてはいけないように思う。

人間は、一度しか人生を生きられないし、
しかも、そこでは、
けっこう頼りない短さの時間しか
持たせてもらえてない。
ただ、せいぜい2つか3つ程度のことになら、
責任を持って取り組むことができるし、
それがへただったり未完成だったりしても、
自分自身にウソをつかないでいられるものだと思う。
そういう2つか3つのなかに、
殉教的な行為があることもあるだろうし、
生まれた国から遠く離れた場所での仕事もあるだろう。
それは、おそらく、彼や彼女が、
あらためて選び直した「隣人」への愛だ。

ぼくにとっての隣人とは、どういう人たちのことだろう。
あなたにとっての隣人は、どこにいるのだろう。
いまの時代に、隣人とは、誰のことなのだろう。

『大地の子』というドラマで、
主人公の養父になった先生のしたことが、
ぼくがいま想像できる隣人のイメージに最も近い。
そのきっかけは、まったく偶然だったということも含めて。

ふう。寝ます。

2003-03-24-MON

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