<明るいだけで、基礎点40点>
前に、ぼくは「向日性」ということについて書いた。
この言葉は、日常の中にはなかなか出てこない
いかにも漢字の言葉なのだけれど、
ときどき、ぼくの頭のなかの黒板に大書される。
いろんな場面で、いろんな人の意見を聞いていて、
なんだか、ちがうような気がすると感じたときは、
たいてい、この「向日性」ということに行き着く。
言っておくけれど、「向日性」が正しい
というようなことがいいたいわけじゃない。
ぼくは、どうしても
「向日性」をベースに考えようとしてしまうのだが、
そうでない方向でものを考える人がいてもいいと思う。
ずいぶん、調子のいい言い方に聞えるかもしれないが、
両方、役目を持っているということくらい知っている。
人間にも社会にも、自分の属するグループにも、
探していけば、問題はいつも山ほどある。
このまま進んだら大変なことになる、というような
大問題もそのなかにはあるにちがいない。
だから、警鐘を鳴らすという役割の人や組織が
必要だということもわかる。
たとえば、いま現在だと、
景気をどうするかという問題は、
いくらでも深刻に語れると思う。
このまま行ったらどうなるかという不安があることも
わからないわけではない。
でも、それを徹底的に真剣に考えて、
その考えたり話し合ったりすることでメシの食える人は、
ほとんどいない。
「景気をどうしたらいいかを考えてるんだ」と言いながら
徹夜しているパン屋のあるじがいたとしたら、
カミさんに「早く寝て、パンを焼け」と
たぶん怒られるんじゃないだろうか。
でも「パンを一所懸命に焼いても、売れないんだ。
それは不景気だからなんだ」と、カミさんに逆らってみる?
景気がよかろうが悪かろうが、
おいしいパンなら、人が行列をつくってでも買いに来る。
景気対策に詳しいパン屋があってもかまわないけれど、
そのパン屋がまずかったら、人は買ってくれない。
そういうもんだと、ぼくは思うのだ。
働けど働けど わが暮らし楽にならざり じっと手を見る
と歌った石川啄木が、ほんとうに
「働けど働けど」な生活をしていたかどうかは、怪しい。
枡野浩一さんが、『石川くん』で書いていた啄木像では、
そんなやつじゃなかったように思える。
おいしいパンを焼くことは、自分で答えを出せる。
お客さんに質問してもいいし、
あちこちのパンを試食してもいい、
どこかのおいしいパンの作り方や材料を、
こすっからく盗んでもかまわないとさえ言える。
おいしいってことは、パンにとって何なのか、などと
哲学的になったってかまわないと思う。
人間の味覚とは何かについて悩んだっていいだろう。
自分の探すべき答えは、そのなかに見つかるかもしれない。
しかし、不景気をどうするか、ということについて、
どんなに立派な理論が発見できたところで、
絶対に景気はよくならないし、まずいパンは売れない。
向日性というのは、いわゆるポジティブシンキングとは
ちがうように思う。
明るいばかりでもないし、元気よくというのともちがう。
光のほうを向いているかどうかなのだ。
パン屋が、おいしいパンをつくれたところには
光があるのだ。
そのときが輝きなのだと思う。
そして、そこにはあらゆるパン屋が、
たどりつけるという可能性を持っている。
「じっと手を見る」の向こうに光はないし、
「現在の不況についていっぱしの意見を持っている」
というパン屋に、その話を聞きにきて
レジで金を払ってくれる客はいない。
光なんか、そこにはない。
ここで言っている光を、夢と呼んでもいいかもしれないし、
ビジョンと言ってもいいだろう。
ひょっとしたら目的という言葉でもいいのかな。
要するに、どうなりたいのか。
そのなりたい方角に顔を向けるということなんだと思う。
最近、マンションの空き地にまいたカモミールの種が、
見事に芽をだして大きくなっているのを毎日見ている。
ただの空き地に、ただパラパラとまいただけなのに、
自分で勝手に強く生きているのが、
かわいくて頼もしくてたまらない。
日当たりのいい場所、日陰になる場所、荒れた土の場所、
人に踏みつけられやすい場所、固い土の場所、
どこにこぼれた種も、みんな繁りはじめた。
「この場所は、オレが育つには条件が悪い」と、
文句言う種もなく、みんな
光のほうに顔を向けて育っている。
いずれ、日陰に芽を出したやつなんかは、
どうにかなってしまうのかもしれないけれど、
まずは生きる可能性だけを信じて、伸びている。
まず、ここからしか始まらないんじゃないかい。
光の方向に顔を向けるのでなく、
問題をあげつらって眉間にしわをよせて考えてるだけで、
ゆりかごから墓場までを過ごす人もいるのだろうけれど、
それじゃ、なんのためにわざわざ生んでもらったんだか、
わからないじゃないかと、ぼくは思う。
「明るいってだけで、基礎点40点」と、
ぼくはよく娘に言ったものだ。
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