<対立でない方法。>
ドラマづくりのコツは、「対立の構図」を
いかにうまくつくるかだと、誰かに聞いたことがある。
一方の考えや利益と、もう一方の考えや利益が
並び立たない状況を設定して、
それがいっきに解決されるところに、
ドラマツルギーが生まれるのだ、ということらしい。
それはそれで、そうなんだろうなぁと思う。
いろんなケースで、それはそうだと思うことはある。
大きいところでは、米ソ冷戦時代というようなことを、
想像したりもするし、
イスラム文化圏対キリスト教文化圏とか、
ブルジョワジーとプロレタリアートとか、
善と悪とか、オトナとコドモとか、男と女とか、
阪神と巨人とか、ハブとマングースとか、
いくらでもあると思う。
見物したり、どうなるだのだろうとハラハラするには、
こういう衝突を予感させる対立構造というのは、
ほんとに都合がいいと思う。
ぼくも、かつて、野球場にスポーツ新聞の仕事で行って、
観戦記を書くというようなことがあったのだけれど、
そういう場合、カメラマンが必ず、
こぶしを振り上げて声援を送るポーズで
写真を撮りたがったものだった。
ぼくも、そういう応援をしていた時期もあったけれど、
実際には、そんな感じじゃなくっていたんだよね。
憎らしいとか思いつつも、相手のチームのいいプレイには、
やっぱり感動させられてしまうものだしね。
声を枯らして声援を送っていると、逆に、
見逃してしまうようないいプレイもあるものなのだ。
一方がもう一方を敵として、
対立を煽ってドラマをつくっていくという方法は、
わかりやすくて、興奮度が高められるものだから、
テレビに代表されるメディアは、
それが唯一の方法であるかのように、
対立のドラマを量産していく。
ニュースでも、トークでも、
対立のドラマに仕立て上げていく。
やたらに「VS(ヴァーサス)」で人名を並べるような方法。
それ以外ではおもしろくならないと
思い込んでいるかのような気さえする。
よく語られることだけれど、
007シリーズは、基本的にアメリカとソ連の対立構造を
背景にして成立していたドラマだった。
この冷戦体制が終わって、
英国のエリートスパイを主人公にしたこの物語は、
困ったことになった。
もっとも新しい映画では、北朝鮮を敵にしたかたちで
ドラマを成立させていた。
いまは、敵の見えない時代だと言われて久しい。
だけれど、あちこちで、無理やりにでも敵をつくり
かなり無理のある対立構造を組み立てて
ドラマチックなおもしろさを演出しているようだ。
しかし、対立のないところにドラマは不可能なのか?
実際、日常のなかでは、
対立をことさらに意識せずに、激論をかわす会議もある。
ケンカして本音をぶつけ合うからこそ仲がいい
という伝説に関係なしに、
ケンカしなくても仲のいい夫婦も恋人たちもいる。
労使協調という路線が、うまくいっているケースは、
もういまでは、不思議なこととは思われず、
当然のこととして語られることとなった。
教師と生徒の関係にしても、いっしょに
おなじ目的を設定していくほうがたのしいと思う。
いっしょにつくっていく、というドラマは、
対立だけがドラマだと思われていた時代には、
ありえなかったのかもしれないけれど、
実際、現実はそれがあるということを示しているでしょう。
いまの若い人たちが、何かというと
「ボケとツッコミ」という分類を喩えに出すけれど、
の「ボケとツッコミ」というのも、
対立の構造というわけではないだろう。
このところ、作家の保坂和志さん、川上弘美さんと、
つづけてお会いして話す機会があったのだけれど、
例えば、このふたりの作家は、
対立の構造を描くのではなく、おもしろい小説を書く。
対立こそがドラマだという信仰のみなもとには、
どうも、昔からの「正・反・合」というような
弁証法的な思考があるようにも思える。
そうじゃない思考法もあると、ぼくは思うし、
時代もそうじゃない方法を探したがっているとも思う。
無理して対立をつくったり、
対立こそがドラマだと思い込んだりするだけでは、
現実に生きている人間にそぐわなくなっていると思うのだ。
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