<長老のことば>
ぼくが、「京都に住もうと思う」と言ってることと、
かなり関係あるのだけれど、
さらに、農業とか、食物の育て方とかにも、
本をもっと見直そうと言っていることにも、
全部に関わるようなことなのだが、
「老人」「長老」「たくさん生きてきたこと」などに、
強い興味を持ち続けている。
で、「ほぼ日」で、
9月にやろうとしているイベントのことを、
少し話しておきたいと思った。
自分たちは、すっかり「やる」と決めているものだから、
その企画意図などを伝えることを忘れていた。
とても簡単に言えば、
「長老のことばを聞く日」を、やりたいのだ。
長老というと、みんなはどういうイメージを持つのか、
よくわからないのだけれど、
実際に、この日集まってくださる方々は、
若者以上にラジカル(根源的)に、
ものごとを語る人たちばかりだ。
社会の活性がないときには、
若い人たちのエネルギーが頼りにできなくなる。
いまのような時代に、何か新しい道を発見して
ぐいぐいと乱暴に光に向かって進むような若者は、
なかなか出てきにくい。
こういうときに必要なのが、
長老の話なのだと、ぼくは思うのだ。
しかし、いまは家族のあり方が昔とはちがっていて、
老人と若い人たちは、いっしょに暮しているわけではない。
会社にも、経営陣は別として定年制というものがあって、
65歳を過ぎた人たちの顔を見ることもない。
人間は年をとると頑なになるとか、
融通が利かなくなるとか、よく言われてきたけれど、
ぼくの知っている年をとった人たちは、
とんでもなく柔らかで根源的なのだ。
生き方によっては、年をとればとるほど、
大らかに広々とした目で
世界や人間を語れるようになるのだと、
こういう人たちから、ぼくは学んだ。
いままでも、「ほぼ日」のなかで、
対談というかたちで登場していただいた方々の、
生の声を、ほんとにみんなに分けてあげたいものだと、
ずっと思ってきた。
彼らの話を聞いているうちに、
若いつもりの客席の人々が、それぞれに、
「自分のほうが、頭がこわばっている」と、
衝撃を受けてしまう可能性もある。
ひょっとしたら、なんだか気持ちよくなって、
とろとろと眠りに誘われてしまう人もいるかもしれない。
自分とまったく違う意見を聞いて、
それはちがうと言いたくなる人も、たぶんいるだろう。
しかし、「何かの立場を守るため」でも、
「講演という仕事をするため」でもなく
その場に来て、話をしてくれる長老たちの、
生の声が、どういうタペストリーを織りだしていくかを、
その場にいて見続けることは、
かなりスリリングな「娯楽」になるとさえ言えるだろう。
藤田元司、小野田寛郎、吉本隆明、谷川俊太郎、という
それぞれに歴史的な経験を積んできた人々が、
次々に登壇して、彼らの経験を盗ませてくれるという場は、
たぶん、いままでになかったものだと自負している。
それ以外に、何かスペシャルなプランも準備したいけれど、
あくまでも、そっちはオマケだと思ってほしい。
内容についても、予算についても、
後先考えずに企画をスタートさせてしまって、
「東京フォーラム」という場所も予約してしまった。
骨組みだけ、とにかく先につくってしまったわけだ。
これから、動いていくことで、肉がついていって
血が通うようになっていくはずだ。
一部、誤解している方もおられるようだけれど、
おそらく、ちょっとしたコンサートくらいの
入場料金も、ちゃんととるつもりだし、
チケットも、ふつうの売り方をする予定だ。
無料でご招待なんてことは、今回、
間違ってもやらない。
これで、席が埋まらなかったら、
それはそれでしかたがないと、次のことをまた考える。
しっかり耳を大きくして、心を開いてその場にいたら、
きっとたくさんの宝物を発見できる日になると思うのだ。
まだ、決まってないことも多いので、
あらためてまた詳しいことを発表するけれど、
ぜひ、憶えておいてほしいと思って、書きました。
いま、まだ旅先にいて、
ちょこちょこっと、
このことについて書くつもりだったのだけれど、
なんだか、夜中のラブレターみたいになったかもしれない。
ま、それもいいか、と、このまま送信します。 |