ITOI
ダーリンコラム

<ある、と知るだけで。>


こどもの頃に、立ち小便をしながら夜空を見て、
ああこの空には果てがあるのだろうかと考えた。
その気分というのは、すっきり解決しないままに、
いつまでもぼくの心のなかに残っていて、
ときどき、その続きのようなことを考えたくなる。

今週は、あんまり読んでもらえなくてもいいや、と。
なんとなく、書きたかったから書いただけのことだ。

大きな滝の前に立ったときに、
日常のなかで知っている「やわらかな水」というやつが、
圧倒的な激しさを持っていることに驚いてしまう。
耳の鼓膜だけでなく、内臓まで揺らすような音がするし、
霧のように漂っている水の飛沫だけでも、
近くにいる人間のからだをびしょぬれにしてしまうほどだ。
修業の人たちが、滝にうたれている場面も、
テレビや雑誌などで見ていると
水量のない「ちょろちょろ」と情けない滝だなぁと
思ってしまいがちなのだけれど、
実際にやったことのある人なら、
そのスゴさを理解できるんだろうなぁと想像している。

いや、別に滝のことを書こうと思ったんじゃなかった。
滝のあの圧倒的な迫力が、
人間の何かを変えるということを、
まず共通の理解として持っておこうと思ったわけです。

横尾忠則さんは、滝の絵はがきを
たくさん収集していた。
滝というもののパワーに魅せられたのだと思う。
また、最近では滝の側にいると
「マイナスイオン効果」で身体にいいということなども
言われはじめている。
そこには「気」があるのだという説もある。
ほんとうの答えはなんなのか、
ぼくに決められるわけではないけれど、
大昔から信仰の対象になってきたものだけに、
「なんでもない」と言うのはかえってむつかしい。

同じようなことは、
富士山にも言える。
霊峰と呼ばれて崇められてきた地面の隆起は、
これまた、「なんでもない」と言えない何かを感じさせる。
神秘も霊験もあるものか、と言いたがる人でも、
富士山が近くに見えてきたら、
「おおお、すげぇ」などと胸騒ぎを感じてしまうものだ。
おそらく、富士を見て勇気が湧いてきたという人も、
歴史のなかで数限りなくいたろうし、
いまでも富士を見ては何かを祈っている人があるだろう。

ハワイ島の火山口に立った人も、
エネルギーをもらったような感覚になるらしい。
樹齢何百年というような大樹の前で、
生命力が沸き上がってくるのを感じる人もいる。

巨大なものばかりでなく、1匹のクワガタムシに、
そういう神秘の力を感じる人もいるだろう。
スポーツのスター選手に出会って、
「すごいオーラを感じた」という人もいる。
いや、日常のなかでも、
つき合いのある会社の部長に神秘とも呼びたい力を
感じてしまうというようなこともありうるだろう。

ぼく自身も、こういった「なにやらスゴイもの」について、
つい、考えるいとまもなく感じ入ってしまう人間だ。
そういうその「なにやら」というのは、
一体全体なんなのだろうということへの興味もある。

その「なにやら」が「気」であっても、
「イオン」であっても、「フェロモン」であっても、
なんだって別にかまわないとも思っているのだが、
「ある」んだよなぁ確かに・・・ということだけは、
他の人にもわかってもらいたいという気持ちがある。
なんとか、そのことを、
誰にも納得できるように説明できないものかなぁと
ずっと考えていた。

で、とりあえず、こういうことを思いついたんだけど、
どうだろうか?

まず、あらゆる人間は「井の中の蛙」である。
井戸の大きさは、それぞれだとは思うけれど、
アマゾン川の長さを感じることもできないし、
月までの距離を実感することもできないし、
地球の大きさを理解することもできない。
わかるのは、日常のなかで目で見られることの、
ほんの一部だけである。

むろん、記号や観念というツールを持っているから、
48億年だとか、18万キロメートルだとか、
100万馬力だとか、永遠の愛だとか、
コトバとして「世界」を描くことはできる。

しかし、やっぱり、いつも持っているモノサシは、
日常生活をつつがなく送るために都合のいい寸法で
目盛りがついていて、
それを使って生きているのが現実だ。

ほとんどすべての人間は、
いくら小さくても30センチ以上で、
いくら大きくても3メートル以内くらいの大きさで、
どんなにメシを食っても1日10キログラムも食えなくて、
どんなに長生きしても200年は生きられず、
どれだけがんばっても、時間を超える旅はできず、
どれほど欲をかいても1000人の配偶者を持てず、
いくら根性があったところで寝なくては生きられず、
どんなに知的でも運個をしないわけにもいかない。
記号をあやつったり、観念を研ぎすませていくことで、
その限界を超えたようなつもりにはなれるだろうが、
やっぱり、「井の中の蛙」であることは否定できないのだ。

そういう、人間という井戸のなかのカエルが、
自分の井戸のなかに合わせたモノサシを、
思わず取り落としてしまうようなものが、
「ある」のだと知ったときこそが、
あの「なにやら」に出会ったときなのだ。
そんなことを、ぼくは思ったのだった。

自分の脳のなかにある「世界」に、
もともと滝のひとつやふたつはある。
しかし、その滝は、すでに記号化された滝である。
現実の大滝に近づいたときに、
それまで脳のなかの世界にあった滝は、
現実の迫力に圧倒され、修正を余儀なくされてしまう。
このときの感情の震えが、
「気」と名付けられたり「オーラ」と呼ばれたり、
ときには「マイナスイオン」と表現されるのではないか。
そんなふうに考えてみたのである。

これを、ひとまとめにして、
「現実による感動」と言ってもいいかもしれない。
雷の音の大きさ、台風の恐ろしさ、
美しい音楽の忘れられない快感、
恋する時間の気を失うような甘美、
造物主への感謝の念さえ生まれてくるような
クワガタムシの美しさ、
あり得ないと思っていた期待が一気に叶うホームラン、
そういうものに出会うたびに、
ぼくら井戸のなかのカエルたちは、
それなりに井戸の大きさを変えていくのだ。

「ない」ことの数をいくら数えても、
井戸は大きくなりにくい。
「ある」「存在する」ことのひとつひとつを知るだけで、
ぼくらの世界は大きくなっていく。
大きくなっていいことがあるのか、と、
ツッコミが入るかもしれないけれど、
いいことはたしかにあると、ぼくは思う。
井戸の、つまり世界の広さに比例して、
自由の範囲が大きくなると思うからだ。

自由の範囲が広くなるばかりでいいのか、
という問題については、また別なので、
このへんでやめておく。

2003-06-30-MON

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