<作家・政治家・坊さん>
人を、生まれた月日で分類すると、
いろんな分け方ができる。
小分けしたひとつずつに、星座の名前を当てはめたり、
動物の名前を当てはめたりすると、
いろんな物語ができて、さまざまなたのしみができる。
生年月日のない人はいないから、
誰もが、各物語の重要な登場人物になれるので、
この遊びは、いつまでも流行し続けると思う。
血液型で分類することも、
誰もが何らかの血液型を持っているから、
その物語のどれかに、
「自分は、どういうものか」の答えがある。
だから、これもけっこう人気がある。
そういうものとは別に、
自分がどこに当てはまるか、
すぐにわかりにくい分類というものもある。
「ロマンチストかリアリストか」というのは、
一見、わかりそうだけれど、
生年月日や血液型のように決めることはできない。
ある人が、「あいつはロマンチストだからなぁ」と、
根拠ありげに言ったとしても、
他の誰かが、「そんなことあるもんか!」と言ったら、
もうわからなくなってしまう。
しかも、言われた本人が、
「オレって、ロマンチストなのか?」と、
全然わからないままということだって多いにある。
「ドライかウエットか」というのも、昔あった。
「古いか新しいか」ってのも、よく言われるよね。
「右か左か」と、政治思想を分類する場合もある。
「ヒップかスクエアか」というのは、
ノーマン・メイラーという作家が考えたものだけれど、
それはその後「ヒッピー」のおおもとになったと思う。
このあたりは、ぜんぶ、
決めつけるための理由も根拠もあいまいなものだ。
「キミって、ひとりでも生きていけるタイプだから」
と言われてふられた女性は、数多いと思う。
しかし、女性は、
「ひとりでも生きていけるタイプ」と、
「ひとりでは生きていけないタイプ」とに、
ほんとうに分けられるのだろうか。
あと、あれがあったよ。
織田信長「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」、
豊臣秀吉「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」、
徳川家康「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」、
というやつね。
三人の天下を取った武将の考えを
鳴かないホトトギスへの対応に象徴化して、
そのうち、どれに自分は近いか、という分類。
どういうわけか、若いうちは、この話はあまり出さない。
社会に出て、おじさんと呼ばれるようになると言い出す。
「オレは、やっぱ、信長だからよー」
「そう、オレもお前も、鳴かぬなら殺してしまえだよなぁ」
「だけど、部長ってのは、家康なわけじゃん・・・」
「それは、わかるのよ。いいのよ家康でも、ね」
なんて具合に語られるのだけれど、
自分が、信長なのか、秀吉なのか、家康なのか、
その決定については、
これは、たいていの場合、自己申告なのである。
生ビール飲んでいる山田くんと、
焼き鳥のたれをシャツにこぼしちゃってる斉藤くんは、
自己申告によって、「信長」になっているのである。
気が短いのかこらえ性がないのか、
考えが広くないのか、よく知らないけれど、
答えを性急に求めたがる人は、みんな「信長」なのだ。
で、たいていの、このたとえ話をする「オレ」は、
90%以上の確率で「信長」なのである。
そして、こういう場で陰口を叩かれている
愚図で目の前の利益のことばかり考えている
夢のない、「オレ」より力のある人間は、
90%以上の確率で「家康」に認定されているのだ。
3人の武将のなかで、論理的には
いちばん筋が通っていると思われる「秀吉」は、
あんまり登場してこないことになっている。
ハンパだったんだろうな、こういう場面の主張としては。
「信長・秀吉・家康」という分類は、
消えそうで消えない、もう古典のようなものになっている。
こういう「名作」にはかなわないのだけれど、
昔のぼくのメモ帳に、ひとつ、こういうのがあったのだ。
「たいていの人は、作家か政治家か坊主に分類される」
もちろん、論証なんかないわけだよ。
単なる思いつきなんだから。
でも、いろんな人を、この3つに分類してると、
けっこう長いこと退屈しないで遊べるものなんだよ。
これも、当然のことながら、
自己認識と、他人からの決めつけとのぶつかり合いがある。
自分では「政治家」だと思っているのに、
他人には「作家」だと言われてしまうこともあるし、
そのまったく逆もあるだろう。
作家というのがどういうものだから、とか、
政治家がどうで、坊主がどうで、
というようなことをしっかり定義していくと、
いろんな異議申し立てが出てきて、
うまくいかなくなるんだよねー。
たぶん、
政治家は、現実(という社会)をどうするか、
作家は、自己(という人間)をどうするか、
坊主は、心(みたいなもの)をどうするか、
についての興味があるように思う。
パワーというものの扱い方の問題なのかもしれない。
どれも、とても大事なことなのだということは、確かだ。
具体的な人名を当てはめて、
「感じ」をつかんだほうがいいと思うんだ。
同じように政治の世界にいる人を例にとっても、
例えば、小泉純一郎総理は「作家」だな、とか、
石原慎太郎都知事も「作家」だろうなとか、
田中康夫長野県知事は「政治家」じゃないかな、とか、
現在の職業とは別に、個性があると思うわけだ。
自分のことで考えるのもおもしろい。
プロデューサーの仕事をしたり、
組織的なことを考えたりするには「政治家」という資質が、
とても大事だと思うし、
職人仕事に近いような「作家」というエリアの仕事も、
さんざんやってきた自分なのだけれど、
どうも、その上位に「坊主」があるような気がしている。
「政治家」の立場も、「作家」の立場も、
一所懸命にやれるようになったのだけれど、
満足感が、どうも「坊主」のところにあるように思う。
会社勤めの人や、学生でも、
この「作家・政治家・坊主」の3分類はできると思う。
「信長・秀吉・家康」ごっこのほうが、
すっとなじめておもしろいとも思うんだけれど、
自分が、作家なのか政治家なのか坊主なのか、
考える遊びも、けっこうひまつぶしくらいにはなるよ。
でもね、流行らねーだろうなぁ。
生年月日で、必ず何かに当てはまる分類のほうが、
わかりやすいものな。
それでいいのだ。 |