<魚卵式。>
今回は、まさしく「魚卵式」で書いていますので、
読み終えたときには、この原稿のいのちは
なくなっているかもしれない。
それほど、ただ思いつくままに、速く書いたものだ。
ま、読みはじめてみてください。
魚の生殖というのは、大量にどかーっと卵を産み付けて、
そこにざざーっと精子をぶっかけて、
だだだだーっと大量に孵化した稚魚が、
わわわーっと泳ぎだして、
事故にあって死んだり、ひどいのは親魚に食われたりして、
生き残った数だけが次の世代をつくるという方式だ。
どかーっ、
ざざーっ、
だだだだーっ、
わわわーっ、です。
工業が発達していって、大量生産大量消費の時代になって、
思えば、さまざまな商品が、この
どかーっ、
ざざーっ、
だだだだーっ、
わわわーっ、になっているわけで。
そうじゃないものは、「手作り」とか特別の言い方をして、
そのことを売り物にしている。
こういう繁殖の方法を、ぼくは「魚卵式」と名付けたい。
魚よりも、哺乳類のほうが進化しているはずなのだけど、
どかーっ、
ざざーっ、
だだだだーっ、
わわわーっ、のほうが、いろいろ現代にも
都合のいいことが多いらしく、
いままで「魚卵式」でなかったものも、
どんどん「魚卵式」になっていっているようなのだ。
クリエイティブの方法が、これなのだ。
だいたい、「ほぼ日」にしたって、
渾身の力で推敲に推敲を重ねて文章を書くということと
比べたら、とんでもなく「魚卵式」だと思う。
それができるから、ぼく自身も
インターネットで毎日何かを書くメディアを
つくろうと思ったわけだ。
映画のつくり方なんかも、
そりゃ、監督によってちがうだろうけれど、
実際に使うかどうかを厳密に判断するより先に、
あらゆる角度から映像を撮影しておく。
そして、その「素材」として蓄積しておいた映像を、
編集のときに適宜取りだしては、組み合わせて
一本の映画を作っていく。
当然、役者やスタッフは、
使うかどうかわからない映像をキープするために、
カメラの位置や撮影方法をかえては、
何度も同じ演技をくりかえさなければならない。
使われなかった映像というのは、
魚卵で言えば、他の魚に食われて消えたいのちだ。
写真家が写真を撮影するのも、
モータードライブなんかを使っていたら
もう、とんでないたくさんの枚数の写真を撮るわけだ。
その無数の写真のなかから、
一枚を選ぶところで、写真家の真剣勝負がもう一度ある
ということになる。
たぶん、ワープロの普及以降の小説なんかでも、
書いたり消したり、文章を移動させたり直したりが、
とても簡単になったぶんだけ、
一度は書かれたけれど、消されてなくなった言葉は、
きっと昔より増えたことだろうと思う。
ぼくは、「魚卵式」が悪いと言っているのではない。
そうなってきているということを、まず確認している。
前に、「ほぼ日」電脳部長に
なぜコンピュータの進歩はそんなに速いんだと、
訊ねたことがあった。
そしたら、
「失敗も成功も含めて、
ものすごい回数のテストを、
いままでの常識を超えた速度で
繰り返すことができるんです。
それをするためのコンピュータが足りなければ、
増やしてつなげればいいわけですし」
というような答えをもらった。
その考えは、その後のぼくの思考をも大きく変えた。
「たくさん試す、たくさん試してたくさんの事実を知る。
それを一気に、速くやることが、
競争力を持つためにはとても有効な方法だ」
ということを知ったのである。
それとは、ちょっとちがうんだけれど、
モノポリーというゲームを盛んにしていたころ、
世界チャンピオンの百田さんが言っていたことも、
忘れられない。
「あらゆる交渉は、当事者にとってはいいことなんです。
それ以外のプレイヤーには、不利になることですが」
すぐに理解してもらいにくいことなのかもしれないが、
これは、単純だけれどすごい言葉だと思う。
交渉というモノポリーのルールを、
「貿易」とか「交際」とか「商売」に置き換えてもいい。
「にぎわい」のなかに、発展があるということだ。
いまの時代は、「にぎわい」×「速度」の、
魚がじゃんじゃんばりばり卵を産んで、
死ぬ卵と、生き抜く卵があって、
それをまた、じゃんじゃんばりばり食う人がいる、
というようなものなのかもしれない。
しかし、なんでもかんでもこういうふうに
「魚卵式」になっていくと、
必ず、そればっかりじゃ何かが失われるという
逆の思いが生まれてくるというものだ。
ひとつだけ、じっくり時間をかけて宿して、
ゆっくり育てるものの価値が、見直されてくる。
それを、誰でもが手に入れられるわけではなくとも、
そういうものの価値が、よいものとして扱われる。
もう作れないアンティークが価値を持ったり、
印刷でない絵画が高値で取引されたり、
遠くてもキレイな水の海で遊ぶことが求められたり、
山奥でもうまいそば屋に行列ができたり、
というようなことが、
これまで以上に価値を高めてくる。
誰もが等し並に一定の水準のものを手に入れられるためには
「魚卵式」は、とても有効なのだった。
しかし、みんなが「魚卵」を手に入れられるようになると、
「人間のこども」が欲しくなっていく。
育てるのはめんどくさいし、手もかかるし金もかかる。
しかし、そっちを持つこと、そっちと関わることに、
人は向かっていくように思うのだ。
人間の欲望は、
魚の生殖から、人間の生殖に至る進化の道筋と、
おなじような道を、たどるのかもしれない。
もちろん、ますます「魚卵式」になっていくことと、
並行して進んで行くんだとは思うけど。
つまり、100円のハンバーガーを噛りながら、
給料数カ月分はたいて買ったリトグラフをながめるとか、
電車賃も惜しんで歩いて高級な鮨屋に行くとか、
両方のいいところを、どっちも享受するというのが、
実際的なたのしみ方なんだろうと想像している。 |