ITOI
ダーリンコラム

<悲劇まじりに。>

歳末の忙しさのせいにもできるのだろうけれど、
このところの「ほぼ日」はてんやわんやだ。
あちらこちらから、
小さなミスやら、困った問題やらが湧いて出てきて、
誰やら彼やらが、謝ったり解決をはかったりしている。
迷惑をおかけしている人たちには、もうしわけない。
できるかぎりの誠意で応えていくしかない。

特に、さまざまな「ほぼ日」グッズの発送が重なったので、
そのあたりに問題が集中している。
ものづくりや流通に関わる仕事をしている方なら
想像できると思うのだけれど、
材料と過程と送り先が増えると、
それだけ事故の数も増える可能性が高くなる。
そういう事態に、これまでの「ほぼ日」が
対応しきれていないという状態なのだ。
素人ばかりだからいけないのだろうと、
専門家に頼んだら、
そこからまたミスがでるというような、
新しい経験もしている。

なにかが大きく変わるときというのは、
うれしくないことをも含めて進むものだ。
いや、客観的なふりをして解説してる場合かと、
叱られるのかもしれないけれど、
ほんとにそういうものなのだから言ってもいいと思う。

ぼくが小学生のときだった。
いまではすっかり巨大と呼べるほどの大きな組織になった
ある新興宗教が勢いを増している時期だった。
その教団の集会があちこちの安普請の建物の二階で開かれ、
二階の床、つまり一階の天井が落ち、
けが人がでたという報道を読んだ。
一度だけのニュースでなかったような気もする。
二階の床が落ちるほど、たくさんの人が集まっていたのだ。
そして、その場は、落ちやすい床を持った家だったのだ。
こどもごころに、「庶民」の間に「加速度的に拡大」する
新興の宗教の勢いを感じたものだった。
このニュースは憶えておこうと、
小学生のぼくは思ったものだった。
なんだか、すごい事実なのだと直感していたのだ。

二階の床が落ちるというのは、悲劇である。
けが人どころか、死者さえもでたかもしれない。
だが、なにかが急速に成長するときというのは、
ほとんどの場合、こんなふうに悲劇を伴いながらになる。
二階の床が落ちて亡くなった人にとっては、
とんでもない言い方になってしまうのだけれど、
悲劇なしに、なにかが成長するというようなことは、
ありえないのかもしれない。

「ゲートボール殺人」というニュースもあった。
ゲートボールという、お年寄りが集まって楽しむゲームが、
これまた大流行したことがあったのだけれど、
このゲームをめぐって殺人事件が複数回起こっていたのだ。
「それほど夢中になれる遊びなのか?」
と、思わざるを得なかった。
酒を飲んでいたとか、
当人同士が前々からよからぬ関係であったとか、
直接ゲートボールに関係のない要素もあったのだろうが、
そのゲームのなかで人が殺されているのだ。
こういうときに、
ゲートボール人口が倍々になっていくのだ。
その後、ゲートボールのプレイヤーたちは、
カラオケに移動したようにも思うけれど、
カラオケの場合も、順番やらヤジをめぐって、
ずいぶん人が殺されていたはずだ。

なんだか、いい例えじゃなかったようにも思うけれど、
加速度的に成長するときは、たいてい悲劇まじりになる。
そういうことは、言えるのだ。

「ほぼ日」は、いま、
悲劇的に苦しいというわけではないけれど、
これまでのままでは、やっていけない大きさになっている。
金属疲労もあるし、古い仕組みの軋みもでていると思う。
成長痛のようなものをたしかに感じながら、
新しい年を迎える準備をしているところです。




ついでですが、

来年になると、「ほぼ日」の乗組員の家に、
新しい生命がひとつふたつ誕生する予定です。
希望のない時代でもないし、
希望のない会社でもないと思ったからこそ、
家族が増やせるということでしょうから、
ボス役のぼくとしてはうれしいかぎりなのです。
しかし、いまのままの「ほぼ日」の方法では、
こどもを育てるには、いい環境じゃないわけで。
こどもをほったらかしにしないで、
しかも読者にしっかりとよろこんでもらえるような
仕事の仕方を、考えてつくっていく必要があります。
たぶん、そういうことをちゃんとやらないと、
いくら無理して成長しても、ぱたんとあっけなく
倒れてしまうような脆いチームになると思うのです。
おそらく、できると思うんです。
これは、また、たのしみです。

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2003-12-22-MON

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