ITOI
ダーリンコラム

<原始人からの、成りあがり。>

思えばすげぇことだよなぁ、と、
しみじみ思うことがある。

このところニュースになっている家畜の病気の問題から、
もともと、「食うために飼う動物」がいるということに、
思えば、すげぇことだよなぁ、と。
生まれることも、死ぬことも、
人間の都合で決められる動物がいる、というのは、
なかなかすごいことだとは思うのだ。
食われるために生まれてきて、
食われないために逃げるチャンスもなく、
戦って勝つという場面もなく、
食われるために生きる動物たちがいる。
センチメンタルな思いで言うのではない。
かわいそうにという権利もないし、そう思いもしない。
植物を栽培して、実らせて食うのと同じように、
牛や豚やニワトリを、逃げないように囲い込んで、
育てて食うというわけだ。

何十万羽のニワトリが、いっせいに処分された
というようなニュースも聞くけれど、
それも、すげぇことだよなぁ。
いいのかなぁ、という気持ちもちょっとある。
ふだん、平気でいろんな生きものを食っているので、
かわいそうだなんて言う権利もないし、
肉を見てかわいそうだと思わないように、
ぼくらはできあがっているようだ。

植物を食うことについては、
たいていの人は、心を痛めない。
魚を食うことについても、平気である。
トリになると、ちょっと痛いかもしれない。
特に、自分の家で飼っていたトリを食うためには、
そこで、いったん考え方をチェンジさせる必要がある。
哺乳類になると、食うことに抵抗がでてくる。
犬を食う人たちは、食わない文化の人たちに責められる。
猫についても、食うと言ったら軽蔑されそうである。
馬は、食う人と食わない人がいそうだ。
ネズミなんかは、カワイイからという理由でなく
食わないことになっているようだ。
クジラは、食う人々がいる一方で、
それに激しい怒りを感じている人たちがいるようだ。
しかし、牛、豚については、
たいがいの人がオッケーなのだ。
牛や豚は、人間に食われるために生まれてくるという。
食われることが、牛や豚の幸せなんだ、とさえ説明される。
感謝して食べてやることが、よいことなのだ、という。

こうして、あらためて説明的に書くと、
思えばすげぇ理屈だよなぁと、思ってしまう。

なんだか、人間というのは、
基本的なところでは、ぼくらが想像している
「原始人」という姿のままなのではないだろうか。
服装は、いい感じでシャレてきた。
移動には、ガソリンで走るクルマとか使うようになった。
むつかしいことも、たくさん考えられるつもりもある。

しかし、隠れたところでやっているので、
まるでしてないようにも思い込んでいるけれど、
人間は、他の動物と同じようにうんこしている。
「便所」という囲いのなかでやっているというだけだ。
性行動についても、あんまり
ソフィストケートされているとは言いにくいことを、
ずっと同じようにくり返している。
基本的には、動物の一種類ではあるのだ。

「だから、気取るな」というようなつもりはない。
ぼくには露悪的に何かを言う趣味はあんまりない。
そうじゃなくて、もともとただの動物だったという
「出身地」を憶えていようというようなことだ。
思えばすげぇことをしちゃうような動物が、
いま生きている人間のふるさとでのふるまいなのだ。
人間というのは、文明社会に「成りあがった」動物なのだ。

「いまじゃ文明都市で気取ってるオレですが、
もともとは原始人出身ですから」というような、
なかなか説明しにくい謙虚さが、必要なんじゃないか。
そういう謙虚さがあれば、「原始人村」の考え方と、
「文明都市」の考え方と、両方を立てるような
自然なバランス感覚を持てるんじゃないだろうかね。

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2004-03-15-MON

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