ITOI
ダーリンコラム

<ぼくの、苗の発見。>

子どもの名前を付けるような機会があったら、
「苗」という漢字を使って名前を付けてみたいと思う。
苗子でも、苗でも、苗男でも、苗苗でも、いい。

農業の現場に見学に行くようになってから、
それまで知らなかったことが、恥ずかしい、
というようなことを、いくつか知った。
実は学校で習っていたのかもしれないけれど、
ぼくは「苗」というものの存在を、
すっかり忘れていたと気がついた。

なんとなく、作物は、
土に種を蒔いて、そこで根を張り芽を出して育っていく、
というふうに成長するものだと思い込んでいた。
ま、そういう育ち方をする野菜などもあるんだけれど、
基本的に、ほとんどの作物は、
まず、発芽させて幼い植物の状態にした
「苗」をつくることからスタートする。
「苗」をつくるのは、その後その植物が
すくすく大きくなる畑ではなく、
管理しやすい温室などの「苗床」である。
そこで、まずは「苗」がつくられるのだ。

そして、その「苗」が、畑に移植されて、
やがては野菜になっていく。
そういう仕組みなのだった。
だから、園芸が趣味の人とか、本職の農家の人たちでも、
自分で「苗」を育てるとはかぎらない。
「種苗」として売っている「苗」を買ってきて、
それを自分の畑に植えて、育てていく
という方法をとる場合もとても多いらしい。

「いい苗」と「わるい苗」は、もちろんあるのだろうが、
考えようによっては、「苗」までの段階では、
ほとんどの植物は、ほとんど似たようなものだとも言える。
「苗」は、みんな同じようなものなのだけれど、
その「苗」を、どういう場所で、どういう人が、
どういう考えで、どういう手間をかけて、どう育てるか?
ここで、いい野菜、いいくだもの、ができあがる。

永田照喜治先生の永田農法も、おそらく、
「苗」の段階までは、他の人たちの方法と、
そんなにはちがわないのだと想像できる。

この「苗」という存在について知ってから、
ぼくはずいぶんといろんなことが考えやすくなった。
あんまり短絡的に言ってしまうと反撥されそうだけれど、
やっぱり、人の育ち方について想像してしまったのだ。

人にも「苗」の時期というのがあると思うのだ。
少年少女までの時期とも言えるし、
青年期までが「苗」だとも言えるかもしれない。
実を結ぶ力のできていない時代だ。
自立できていない時代のことだとも考えられる。

矢沢永吉が『成りあがり』という本のなかで、
「オヤジの時代では負けたかもしれないけれど、
オレの時代では勝ってみせる」
という内容のことを語っている。
親の時代、まだ矢沢永吉も「苗」だったのだ。
広島の枯れた土の上で発芽してしまった「苗」だ。
その「苗」は、少し大きくなって、
せいいっぱいに生きる力を身につけ、
ぎりぎりの養分を吸って自分の育つべき畑に向かった。
「苗」の時代に必死で身につけた生きる力を、
東京という土地で発揮して、大きな収穫を実現した。
そんな物語だとも言える。

よく、遺伝と環境と
どっちが人格形成に大きな影響を与えているか、
などという問題が立てられる。
ぼくにも、ほんとうの答えはよくわからない。
ただ、「苗」という概念を使えば、
かなり正解に近いところまでたどり着けるような気がする。
種の素性というものも、あるだろう。
それはそれで無視することもない。
さらに、いい苗床で元気な「苗」になる、
というような少年期青年期を過ごすということもある。
これはこれで、ありがたいことだと思う。
しかし、ここまでの「苗」の時間は、
人生ぜんたいのなかでは、かなり短いものにしか過ぎない。
その後の、自分の見つけた畑での育ち方、
というか生き方で、作物の実り具合、
生きものとしての成長は決まっていくのだと思う。

歌舞伎の若手の役者さんたちを見ていて、
「苗」の時代を抜け出してからの、
自分で生きていく力がついてからの成長ぶりには、
ほんとうに感心してしまう。
たぶん、彼らは、「若芽」や「苗」の時代から、
実を付け大きくなることの困難を、
いやというほど知らされてきたのだろう。
総理大臣の息子の役者さんもきっと同じだ。
デビューのころと、もう、顔つきがちがう。
総理大臣の子どもとしてだけの価値しかないものなら、
もう、そろそろ腐りかけて枯れているころだ。
しかし、まだ茎や葉が青々しているように見えるのだから、
きっとそれは彼が、自分でつけてきた力のせいだ。

「苗」として、ほんとうに恵まれない育ち方をした者も、
「苗」の時代に恵まれすぎた者も、
その後の、畑に移ってから、どんなふうに成長するかは、
決まっているものじゃない。
どんなにすばらしい苗床に生まれた人も、
荒れ地にこぼれた種が勝手に発芽したような人も、
「苗」のときの差なんか、ほんのちょっとしかないと
考えるべきなんだと、ぼくは思う。
自分自身のことを思い起こしても、
20歳くらいから、いっぱいいっぱいで失敗しながら
やってきたことのなかにこそ、自分がいる、という印象だ。
たぶん、その印象はまちがってない。

いままだ「苗」のみなさん、がっかりしちゃいけない。
いままだ「苗」のみなさん、安心してちゃいけない。
そんな気持ちをこめて、
おとなは「苗」までしかつくれないんだよ、
という意味をこめてさ、
子どもに、「苗」という名前を付けてみたいというお話。

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2004-06-14-MON

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