ダーリンコラム |
<あじ> ひとりごと、という言葉はある。 ひとりかんがえ、という言葉はないけれど、 そういうことは、あるんじゃないかなぁ。 ぼくは、よくやっている。 学者でもないし、論証する必要もないんだけれど、 なんか考えはじめるとおもしろくなって、 ついつい、時間をつかってしまう。 これも、ぼくの好みの無料のたのしみというやつだ。 今回は、よく「ひとりで考えていること」のひとつを、 そのまま書いてみようと思う。 日本人の美意識には、「さら」を好む傾向が強いようで、 新品、他人が手をふれてないもの、汚れのないものが、 よいものとして、大事にされる。 「古事記」に、愛妻を亡くした夫が、 愛する思いを断ちきれず、 黄泉の国まで亡くなった妻に会いに行く話がある。 しかし、この愛する夫氏は、 美しかった妻が蛆虫にたかられ 醜い死体になっているのを見て、ひしと抱き合うどころか、 命からがらの思いで逃げ帰ってくるのである。 日本の最古の神話が、これなのだ。 十字架に磔になった血まみれの救世主が甦った という教典を持つ人たちとは、 根本的に精神の構造がちがいそうだ。 自分のことでも、キオスクで雑誌を買うときに、 いちばん上の、いかにも他人がさわりそうな一冊を避けて、 下のを抜き出して「これください」と差し出すのだから、 まっさら願望は、なかなか根強く残っていると思う。 春に、桜についての鼎談で知ったまた聞き知識なのだが、 古来から日本では、「鬼門」の方角に桜を植えて 「結界」にしていたのだという。 悪いものが忍び込むことを、 桜という美しいもので防いでいたというわけだ。 醜は悪で、美は善を、そのまま表現していたということだ。 しかし、日本の美意識は、 そのたったひとつの潮流だけではとどまらなかった。 「わび」と「さび」という、 「さら」に対するカウンター的な美意識が、 ある時代から生まれてくる。 「侘(わび)」については、 広辞苑には「閑寂な風趣」というような説明があるけれど、 わかったようでわからない。 わかるのは、「いいもんだ」と思う心が存在することと、 「わびしい」という気持ちとつながるような、 決してただ肯定的でない美意識だということだ。 敗者の側が感じとる趣だと聞いたこともある。 これについてきっと一生研究し続けている人が、 何人もいるんだと思う。 ぼく個人は、「わびしい」の感情を受け入れる美意識、 くらいに考えている。 「寂(さび)」も、広辞苑をみると、 「古びて趣のあること。閑寂な趣」なんてある。 ぼくの勝手なとらえ方では、 「さびしい」とつらなるような心を「よしとする」感性、 鉄などが古びると出てくる「錆」のイメージもある。 「わび」や「さび」を美しいとする感性は、 「新品」の「まっさら」を好む、 それまでの日本の美意識に対して、 対抗するようなかたちで生まれたものだろう。 美は善、醜は悪という感じ方では、 「わびしさ・さびしさ」は、「よし」とはできないだろう。 まして、「錆」とは、 ピカピカに磨いた鉄にとっては「死の気配」である。 それを肯定するような美意識は、 かなり洗練された精神のありようだともいえる。 いまの日本の若い人には、「わびさび」はわからない、 などということを、偉そうにいう人もいるけれど、 そんなことはないようにも思える。 まっさらの「新品」でないものの魅力を、 いまの日本でも大いに珍重している人たちがいる。 「ジーンズマニア」という人たちだ。 藍染めのマニア、とも言えるかもしれない。 ジーンズ愛好家の場合、まっさらな新品というのは、 趣のある状態になるための「素材」の状態であって、 それ自体は美ではない、というとらえ方だと思う。 手に入れたジーンズが、実用品として 日々の生活を共にしていくうちに、 「錆びていく」のをたのしむ。 そして、どんなふうに美しく錆びたかに満足するのだ。 鉄でなく、インディゴブルーに染めた布に、 ほんとうは「錆びる」という言い方は 当たらないのかもしれないけれど、 ジーンズの「よくなっていく過程」は、 まさしく「青い錆」の変化をたのしむ物語なのだ。 それは、まっさらの「新品」がいい感じで老いていく、 言い換えれば、よい死に向かっていくという物語だ。 しかし、この価値観は、実は 日本の若者だけのものではない。 ジーンズの色落ちや、しわのつくり出す模様、 青く錆びることをたのしむということは、 アメリカやイギリスのジーンズ好きの間でも、 当然のように流行している。 こういう趣味が、「わびさび」であるのか、 日本人だけの感性なのか否か、などということは、 実はあんまりぼくには興味がない。 「まっさら」や、「新品」だけが美しいとされるのでは、 あんまりおもしろくない。 大量生産の工業製品は、いまでも 「まっさら」「新品」でなければ、商品にならない。 とにもかくにも「誰にも触れられてない」「新品」で、 「使うのがもうしわけないくらいにパリパリ」というような 商品が、ほとんどなのだ。 そうなると、そこに「何かが足りない」という 揺り返し的な感覚が生まれてくる。 なんだか、いま、特にそのあたりの 「もの足りない感じ」が世の中に 充満してきているように思えるのだ。 その「もの足りない感じ」を、 「わび」とも「さび」とも呼ぶわけにはいかないと思う。 そんな微妙で古典的な美意識じゃないのだ。 もっと、「ない」に対する「ある」程度のもの。 あえて名付けるなら、 「あじ(味)」というくらいのものだ。 一般的な商品として流通しているものに ちょいと足りないのは、 たぶん「あじ」だと、ぼくは決めかかっている。 |
2004-07-05-MON
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