ダーリンコラム |
<もう会えない人への失礼。> ほんとに書こうと思ったことは、 ほんの少しなのだけれど、 そのためには、ちょっと前書きがいるので、 まずは、そこからはじめないといけない。 さて、前書き部分のスタート。 今年は何の年だったか、と考えると、 ま、いろいろなまとめ方があるのだけれど、 ぼくが歴史に興味を持った年とも言える。 「おまえ、それまで歴史に興味なかったのか?」 と、痛いところをつかれるのはわかっている。 「なかった」と言い切ってしまうのは、 正確でないような気もするのだけれど、 「いちおうはありましたけどね」と言い訳するより、 事実に近いと思う。 それまでも、生命の発生から人間の誕生まで、だとか、 ピラミッドをつくった人たちの気持ちを想像するだとか、 紀元前の人間も現代の人間も あんまり変わらないものなんだよなぁとか、 ものすごく大づかみの歴史は好きだったのだと思う。 人名がたくさん出てくるような話だとか、 事件の名前を順に関連づけて知ってないと 会話に参加できないような話とかは、苦手だった。 いや、もちろん、いまも苦手ですけどね。 それが、『風雲児たち』というマンガを読んだり、 三谷幸喜さん脚本の大河ドラマ 『新選組!』に夢中になったりしているうちに、 自分が歴史というものを、 いままでとちがった目で見ていることに気づきだした。 だからと言って、『燃えよ剣』も読んでないし、 思えばぼくは司馬遼太郎という人の本を、 一冊も読んでいないことに気がついた。 これまで縁がなかったということだろう。 突然に、ぜんぶ読み始めるようなことだってありうる。 【気が向いたら、読む。楽しく読む】 これが、ぼくの読書なので、 「必読文献」的なものは、ついつい避けてしまうのだ。 それでも、気が向いたら真剣に読んだりもする。 しかし、当然のことながら、 読むか読まぬかは別にして、 「新選組」関係の本は、ずいぶん集めてしまった。 ここまでが前書きのようなものだ。 手に入らないのに、読んでみたい本というものがあった。 『新選組の哲学』という本だった。 Amazonで検索して、目次だけ見てもおもしろそうなのだ。
「カスタマーレビュー」を見ても、 なんとなくそそられる書き方がされている。 もともとこの本は、 歴史関係に強い「新人物往来社」から刊行されたもので、 のちに「中央公論社」で文庫になって出版されていた。 しかし、これが、絶版なのであった。 こうなると読みたくなる。 インターネット古書店で探してもみたけれど、 どうやら手に入らなそうだ。 あれこれ苦労をして、最終的には、 中央公論新社から、資料としてお借りすることになった。 で、とにかく読んだのだ。 おもしろかった。 どうおもしろかったか、説明しろといわれたら、 「ああ、自分がこう言いたかった!」と 言いたくなった本、と言おう。 著者の福田定良さんが、この本で書いていることと、 (オソレオオイけれど)ぼくが 『新選組!』with「ほぼ日TVガイド」で 四苦八苦して言おうとしていることとが、 とても近所にあるような気がするのだ。 『新選組の哲学』という本も、 何かを明確に語っているわけではない。 いや、それどころか、 「明確に語りすぎることを真剣に避けている」とも言える。 (オソレオオイけれど)ぼくも、そういう立場なのだ。 著者の福田定良という方について、 ぼくは詳しいことは何ひとつ知らなかったのだが、 名前だけはよく知っていた。 ほとんど授業には出ていない、しかも中退なのだけれど、 ぼくが入学した法政大学という学校の先生だった。 名前だけは聞いたことがあると思い、 この先生の写真をみたら、髪が少なくて年寄りだった。 当時のぼくは、いまの60倍くらいバカだったので、 そんな教授に「哲学」とかいうものを教わるのは、 なんだか嫌だなぁと思って、勝手に無視をした。 福田定良さんという人の書いたものを 読んだこともなければ、 ご本人にお会いしたことも、なかったのに。 「あんなじじい」と思っていた。 そのくらい、ぼくはバカだった。 ずいぶん大人になってから、 『広告批評』の天野祐吉さんの口から、 福田定良さんという名前が何度かでたようにも思う。 ひょっとしたら、ぼくの何かが、 福田さんに似ているというような話だったかもしれない。 ぼくの方は、福田定良さんのことを「あんなじじい」から 何かもっと素敵な人へと変更させるような 大きな出会いこともなかったせいで、 あんまり興味ないままに、聞き流していたと思う。 なんにも知りもしないくせに、 「あんなじじい」と決めつけてしまっていて、 しかも、そのイメージを変更する機会もなく 自分がもうじじいになりかかっていたわけだ。 そして、その「あんなじじい」の本が、 とてもおもしろいのだ。 続いて、福田定良さんの 『落語としての哲学』を読んだ。 この本も、たのしいウソのつき方を含めて、 ぼくにはずいぶんおもしろい本だった。 まいったなぁ、「あんなじじい」と決めつけていた人が、 こんな本を、ぼくの知らないところで次々に出していた。 ほんとにオレはバカモノである。 お会いできるものならお会いしたい。 あなたの知らないところで、ぼくはあなたのことを 「あんなじじい」と思ってたんです、と、 いまさら謝ることもヘンだから、しないけれど。 この福田さんという人は、「話す」ということを とても大事にしているらしいから、 「話す」をテーマにして、 『婦人公論井戸端会議』の最終回ができたらいいな。 そう思って、担当の打田さんに、 次の回の人選について「福田定良さんはいかがですか」と、 提案のメールを入れた。 その返信に、次のような数行が。
ぼくの無教養に触れないよう、 ずいぶん謙虚な言い方をしてくれているけれど、 つまり、ゲストにお招きすることのできない場所に、 もう、逝ってしまわれていたのだった。 この福田先生という方とぼくとの関係というのは、 いわば「無関係」という関係ではあるのだけれど、 なんという失礼な無関係だったことか。 きっと、ぼくは、こんなふうに、 いろんな人生の先輩やら、 先輩たちの思いや考えやら、作品やら、 アイディアやら、無念やら、間違いやらに対して、 「あんなじじい」「あんなやつ」「あんなこと」 「あんなもの」と言いながら、生きてきたのだ。 書きたかった内容は、ここまでだ。 はじめに、歴史のことにちょっと触れたのだけれど、 それについても同じ思いがある。 昔を生きていた人々への尊敬が、 いまごろ、ちょびっと湧き始めている。 ま、糸井重里というやつについても、 「あんなやつ」というふうに思われている部分も けっこうたっぷりあるわけでして。 それは自分のやってきたことの、罰でしょうな。 |
2004-11-08-MON
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